僕と佐藤幸雄(2)「不在のとき編」
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■僕と佐藤幸雄(2)「不在のとき編」
「すずきー!」
声がする方を見やると、遠くの方にいる、あれは。ま、まさかの。佐藤幸雄さんではないか? え? うそでしょ?
「すずきー!」
ぐんぐん近づいてくる。僕は、後ずさりし、必死で逃げようとするのだが、足が思うように動かない。
で、もう、すぐそばまで来た佐藤さん、
「鈴木ぃ!!」
はい?
「またバンド始めるぞおおお!」
いやああああぁぁぁ!!って叫んだところで目が覚める。
そのころ、僕はしょっちゅうそんな夢を見ては、うなされ、寝汗をかき、飛び起きていた。そして、ああ、佐藤さんはいないのだ、という現実に、うすら寂しさを覚えたり、また、ほっとしたりしていた。
1992年の春。佐藤幸雄はいなかった。完全に姿を消していた。またどうせ、そのうち連絡をくれるんだろう、とタカをくくっていた僕であったが、そのタカは見事に見誤っていた。
会う人会う人に、その後佐藤さんから連絡来ましたか?と聞くのだが、みな一様に、いや、逆に鈴木君にそれ聞きたかったんだけど。てな返事ばかり。で、そのうち、誰々さんが結婚祝いを送ったんだけど、送り返されてきたらしい。いや、絶縁状が来たらしい。ぜつえんじょう?うそだーぜったい。いや、もう、結婚してお金持ちになったから、我々とは縁を切ったのだ。だからなんの連絡もしてこないのだ。いや、あの人に限ってそんなはずはないでしょう。いや、そうなんだ。なんでも何かの宗教に入ったそうだ。え?そうなんですか?うん、そうじゃないかと思うんだ。…想像かよっ!ってんで憶測が憶測をよび、もう、何がなんだかわからなくなっていた。
人に会うたびにその消息を聞いたり聞かれたりしていた期間は相当長かった。佐藤さんから連絡が来たら教えてくれ、と何人もの人に言われた。わかりました、必ず。と答えた。のだが。年月を経るごとにその頻度は減り、ごくたまに、1年ぶりくらいで会った人に、佐藤さん今何してるの?などと聞かれ、その度に、寂しい気分になるのだった。しかし、そういう会話も年々、減っていった。
・・・
佐藤さんがいないということで、僕にはひとつ、すごく困ったことが起きていた。
佐藤さんがいる場合、僕は、何でもかんでも佐藤さんに聞いたり、教えてもらったり、意見してもらったりしていた。
僕、何聴いたらいいんでしょう?
あのバンドのことどう思います?
こういうことしたら面白いと思うんですけど、どうです?
で、佐藤さん、
これを聴きなさい。
あのバンドはああだ。
やるな。
やれ。
それは違う。
これは正しい。
こういうふうに考えろ。。。
まずは何でも佐藤さんにお伺いを立て、意見してもらった。教えてもらっていた。時には判断を委ねていた。頼っていた。
しかし、佐藤さんがいない場合、あれ、僕、どうしたらいいんだろう?って場面で、自分で答えを出さなければならなくなった。てか、当たり前のことなんですけどね!お前いくつなの? いや当時27歳。え?バカなの?って話なんですけどね。
で、そのバカはどうしたかというと、ああ、こんなことしたら佐藤さんに怒られるな、とか、これだったら佐藤さんに褒めてもらえるかな、とか、そういう基準で物事を決めるようになっていました。佐藤さんにまた会った時に「何やってんだ鈴木ぃ!」って怒られないように。
第2段階くらいまでしか教わっていないのに免許を交付されて、一人で路上を運転しているような不安な気分だった。もう教官は隣にいない。あわあわしながらハンドルを切り、危なっかしく、それでもなんとか運転している感じ。
1993年、僕はコンピューターの仕事を辞め、とある大手予備校の大検コースのスタッフに職を求めた。自分の判断だった。当たり前か。
・・・
で、絶望の友が終わって、音楽活動はどうしていたのかというと、やっていた。Korean Buddhist Godというゴリゴリの変拍子ミクスチャーバンド。たいへん面白く、熱中してだいぶ長いことやった。
あと、なんと、さかな。絶望の友が終わってわりとすぐ、1992年の6月に僕を誘ってくれたのだった。最初は「カメラ」という別名義でのスタートだったが、最終的には「さかな」に戻った。あの当時、さかなをたいへんに評価していた佐藤さんであった。ああ、このこと教えたら何て言うだろう、と思ったりしていた。「すごいぞ。鈴木」って言ってくれるかなと。叶わないことだったが。
・・・
そんなこんなで、無闇に時は過ぎ、2000年3月。
東京と大阪で、さかなと田辺マモルさんの2マンライブがクアトロの企画で組まれた。田辺マモルという人と会うのは初めてだったが、知っていた。NHK-BSの真夜中の王国という番組で彼が特集されたのをたまたま観たことがあったのだった。で、『プレイボーイのうた』を聞いて、いいなあ、と思っていた。で、なぜか、少し佐藤幸雄に似ているなあと思っていたのだった。いや全然似ていないんですけどね。
で、まず東京でライブ。その時はさかながトリだったので田辺マモルはしっかり観なかった。で、3日後に大阪。そのときは順番が逆になったので、さかなの出番を終えた僕は客席に回り、ビール片手にじっくり田辺マモルバンドを観ていたのだった。うーん、いいなあ。で、ラストの曲ってんでメンバー紹介がなされていき「ドラム鈴木惣一朗!」って聞いた時、えええ??ってんで呆然とする。全っ然気がつかなかった。3日も。終わるとすぐ楽屋口に飛んでいき、
「惣一朗さん!僕のこと覚えてますか?」
「おおお!やっぱり君か!」
なんでも惣一朗さんは、田辺マモルをプロデュースするかたわら、たまにドラムも叩いているとのことだった。
「佐藤君からは連絡あるのかい?」
「いやいや。全然ないですよ。もう8年前ですかねえ。最後のライブやって、じゃあ、って別れて、それっきり」
「そうかぁ」
その日の打ち上げではもう、2人でずーっと佐藤幸雄さんの話。朝までずーっとしゃべっていた。他の人が横に来ても無視して、2人ともしゃべり続けた。誰の話ですか?と皆一様に変な顔をしていたんだが。
「ジョナサンリッチマンが来た時さ、佐藤くんが来ているんじゃないかって会場を探したんだよなあ」と惣一朗さん。誰ですかそれ?っていう僕に、後日アイスクリームマンのCDを送ってくれた。あと、東京に戻ってから1度飲み会に誘ってくれたりした。
・・・
さて、2000年だが、僕はヒマだった。34歳。腹の立つ生徒を蹴っ飛ばしたのを機に予備校を辞め、10か月くらい失業保険で暮らしていた。で、8月、ついにヒマが頂点に達し、「誰でも作れるホームページ」てな本を買ってHPを開設した。
当初は、さかなのHPを作ろうと思い立ったのであった。すでにさかなのHPはあるにはあったのだが、当時さかなの録音物をプロデュースしてくれていた高橋健太郎氏が更新・運営してくれており、多忙を極める高橋氏、LIVE info.に1999年の「7月」のライブの告知を最後に更新が止まり、それが記載されたまま1年経過して「7月」になり、その去年の告知を見た人から、この日にライブやるんですか? てな問い合わせを僕が受けたりしたので、こりゃもうだめだ、ここは暇な僕が、と思ったのがきっかけだった。
しかしさかなのHPにするのは出しゃばりすぎだと思い、鈴木POP君の個人ページというテイにしたのだった。ブログなどという言葉もない時代。ダイヤルアップという今じゃ考えられないくらい遅い回線だったなあ。
んで、さかなと僕の歴史をつづった「僕とさかな」なる文章を書いては公開していた。これが自分で言うのはいやらしいのだが評判が良く、生まれて初めて知らない人から褒めてもらい、嬉々として更新していたのだった。で、その途中、絶望の友とか佐藤幸雄とかいう固有名詞が出てきて、これは何? 誰? という空気がPCを通して伝わってた。なくなって8年がたっている。そうか。もうみんな知らないか…。ってんで、思い切って「僕と絶望の友」という文章を書いた。佐藤さんが見るわけはないと思ったが、気を使って、丁寧に、すごく時間をかけて書いた。10月。これが、先日配布した「僕と佐藤幸雄・絶望の友編」の原型。でも当時、反響はさほどなかった。ユーザーはさかなの続編を希望していたのだった。当たり前だが。
このころはホントにヒマだったので、やっぱりヒマな藤木ヒロシ君ってのと、よく飲んだり遊んだりしていた。ある日家に遊びに来たフジッキー、「絶望の友のビデオが観たい」と言い出した。
フジッキーのことは、佐藤幸雄に出会う前から知っていたのだが、彼は元々弓削さんのファンで、偶然、僕が加入したての絶望の友を観に来ていたり、その後も観に来てくれたり、っていう仲だった。
んで、ええ?そんなものもう何年も観てないなあ、ってんで引っ張り出してきて再生。絶望の友の最後のライブを収めたVHSビデオ。これ、超満員のマンダラ2で、フジヤマ店長のワタナベさんが下手の関係者席のようなところから撮ってくれたやつで、なぜかほぼ佐藤さんの顔のアップしか写していない映像。おお懐かしい、と感動するフジッキーをよそに、僕は、ゲラゲラ笑いながら、なんだよこれ。なんでおっさんのアップばっかりなんだよー。暑苦しいなあ。などと軽口を叩きながらビールを飲んで寝っ転がっていた。んで、ふと、あれ、このとき佐藤さん何歳だ?と酔っ払った頭で計算してみると、33歳。この酔っ払ってビデオを観ている僕、34歳。え?やだあ、あたしいつの間にかこのときの佐藤さんより年上じゃないの。えええ。いやだあ…。でもそーかー。としみじみ年月・時間というものについて考えてしまった。
・・・
んで、新たに職も得て順風満帆の翌2001年。ひとつの転機が訪れた。
発端は朝日美穂さんからのメールだった。曰く、高橋健太郎さんの事務所に2か月以上前、僕宛ての往復ハガキが届いた。健太郎氏は鈴木君に渡さなきゃ、とずーっと言ってたが多忙ゆえ放置。おまけにこの前そのハガキの上にコーヒーをこぼしていた。見兼ねた朝日さんがハガキを預かってきた。転送するので住所を教えてください。静岡の××幸雄さんという方からです。という内容。
はて、静岡に知り合いなんかいたかしら? 名前にもまったく心当たりがなかった。数秒考えて、なんか、知らない人からの変な手紙だな、と結論し、もういつでもいいですよー、という文面をPCに打ち込もうと思った矢先に、電気が走った。
あ! 佐藤幸雄さんだ! あの人結婚して苗字が変わった気がする。それで静岡に行くって言っていたような気がする。
ほぼ10年間音信不通だった。
うわ。なんだろ? 怒られるのか? あ、あれか。例の『僕と絶望の友』を読んで怒ったのか?
っていうか、2か月前だと?「なんで返事をすぐ寄越さないんだ!鈴木!」という声が聞こえ、怒りの顔が目に浮かぶ。あわわわわ。
速攻送ってください!と住所を送信。
で数日後。夏の夕方。家に帰ってポストを開くと、来た来た来た!佐藤さんからのハガキ。の入った朝日さんからの封書。あわわわわ。何を怒られるのだろうか。
すぐに見る気にはなれず、部屋の空気を入れ換え、着替え、テーブルの上を片付け、冷蔵庫からビールを取り出し、プシュッとあけてぐいっと飲み、西日のあたる窓辺の席に落ち着く。
で、息を殺して封筒を開ける。見覚えのある字体がそこにあった。
「鈴木君、先日さかなのCD"welcome"を図書館で見つけ、家に帰ってクレジットを見て驚き、わくわくしてあなたの演奏を聴きました。ツボを押さえたあなたのドラム。味のあるベテランドラマーになりましたね。今度は生演奏を見せてもらいたいと思うよ。とり急ぎ連絡まで。幸雄」
あら?ってんで、ものすごく拍子抜けする。
佐藤さん、2年前に出したCDを図書館で借りて聴いて、その発売元である高橋健太郎氏の事務所にこのハガキを送ったのだった。
何度も読み返した。◯◯荘102号室みたいな住所だった。とてもお金持ちが住んでいる住所とは思えなかった。それに何?図書館で借りたってどういうこと?お金持ちがとる行動ではない。そしてやっぱりみんなに絶縁状を送った人とは思えない。やっぱり違ったじゃないか!
庭先の、徐々に熱気が冷めていく夏の夕暮れを眺めながらしばしぼーっとした。
そして、するってーと、こういうことだな。と思った。
10年前に僕が色々話したかったのに去っていってしまった人物が、2年前に出されたCDを聴き、出したハガキが僕の手に届くまでに更に2か月かかったと。
すごい。全てのタイム感が無視されている。ハガキは、2か月前に書かれたもののようだが、2年前に書かれたもののようでもあり、10年前に書かれたもののようでもあった。コーヒーのしみも付いているし。
んで、この夏の夕暮れは、あの10年前のようでもあるし、2年前でもあるし、2か月前でもあった。時が止まっていた。時間ってなんだろうと思った。
ぼーっとしていると、ほどなくカミさんが帰宅。テーブルの上のハガキを見て、
「あ!佐藤さんからだ!懐かしい!読んでいい?」
どうぞ。ってんで読ませると
「へー。誉めてるじゃない。うれしい?」と僕に問う。
え?...全然。
「ふーん。なんで?」
うーん、なんでかなあ…。
あ。わかった。僕、佐藤さんに、怒ってほしかったんだ。
・・・
で、その後、何回か佐藤さんと文通した。本当の文通。手紙ね。郵送のね。
僕、あの娘と結婚したんですよー。んで、今度子どもができるんですよー。とか。
そしたら佐藤さんから本が1冊送られてきた。子育てに関する書籍だった。
「この本には僕もとても助けられたんだよ。ぜひ読みたまえ」と書いてあった。相変わらずだなあ。やさしいなあ。
佐藤さんメールとかしないんですか、と問うたのだが、PC持ってないんだよとのことだった。PCを持つ余裕がないのか、持つ必要性を感じていないのか。わからなかったが、おそらく前者じゃないかと僕は勝手に想像していた。そういう話題には触れなかったし、佐藤さんもしなかった。電話番号も聞かなかった。僕が電話を嫌いだということもあるが、なんか、そういう雰囲気ではなかったのだ。
そのころの、2002年正月に僕が出した佐藤さんへの手紙の原文が残っているので、紹介する。
・・・
ちょっと遅れましたが、明けましておめでとうございます。
あと、大変遅れまして、申し訳ございません。お返事出すのが。
赤ちゃん育児本、送っていただき、本当にありがとうございました。ちょうど、そういう本でも読まなきゃなあ、と思っていたところで、驚きました。
妻は昨年12月に博多の実家へ戻りました。里帰り出産です。赤ちゃんの性別は男の子だと先日判明いたしました。8か月目でいきなり逆子になったので、これは生まれる前から反抗期か?と心配しましたが、一昨日妻から電話があり、「今日検診に行ったら直ってた」そうで、おお、いい子だ。さすが僕の子、などと既に親馬鹿な次第。
話はガラッと変わりますが、実は、昨年11月初めに、父が出張先の長野で倒れました。脳内出血で、今日明日死ぬかも、てな感じでした。幸い命はとりとめたのですが、この1月になっても未だ意識が戻りません。長野の病院に入院しておりますが、11~12月は僕もそっちに行ったり、東京に戻ったりで大変忙しく過ごしました。母は離れるのがイヤと、もうほとんど長野に行ったきりだったのですが、やっと昨日家に戻ってきたので、僕も今日は実家に足を運び、ちょっと遅い正月気分を味わっておる次第。
しかし11月はいろいろと考えざるをえない時でした。
週末、長野の病院に行き、集中治療室で頭から管を出して眠り続けている親父を眺め、母を元気づけるために、思ってもない事を無理矢理言ったりし、東京に戻って山のような仕事につきあい、家に帰ってお腹の大きい妻に、心配ないよ、とカラ元気を言ったりしながら、ああ、ついに、僕の、音楽なんてものをやる自由な時間は終わりを告げたのかなあ、と思いました。
思えば今までいい身分だったよなあ、はは、と思いました。
今まで考えないようにして、うやむやにしてきたもの、見ない振りをしてきたもの、を一気に突きつけられた気がしました。
こりゃだめだ。今まで泥のように送ってきた人生のツケなのだ。はは。やめよう。もう音楽はやめよう。そんでもってあとは家族のために時間を使おう。 そう決心して2週間ぶりにさかなのリハに行ったのです。
で、スタジオで、ドラムを叩いたら…これが楽しい。西脇さん・POCOPENさんのギターとPOCOPENさんの歌にあわせて叩くドラムが楽しい。実際その時のスタジオは、僕の今までの音楽人生の中でも最高の演奏でした。なぜギターというものがああいう音を出し、歌が歌われるのか、すごくわかった気になりました。で、僕はドラムをこう叩く。と思って叩く。と思い通りに音が鳴る。僕の気分は今こうだよ、と思っていることが、自然と体を通して、ドラムを通して、外に出ていく爽快感。スタジオという空間が音によって満たされ、時間が音に支配されて進んでいく。久しぶりに、ああ、今、この時間は自分のためにある時間だ!と思いました。
そのとき、ああ、音楽やっててよかったな、と、心底思いました。
同時に、こりゃやめられないや。と。いや、やめちゃいかんな、と。
考えたのです。
どう思われます?
今はやめようなんてこれっぽっちも思っていません。そりゃ、いつかはやめるだろうと思います。でも今は、以前より迷いがない、というか、完全に、自分のためだけに音楽をやるんだ、とさっぱり開き直ったというか。もちろん、一緒にやってくれているメンバーとか、聴きにきてくれるお客さんとかのためにやるのですが、そういう人たちに喜んでもらったり、感動してもらったりする、ということ自体が、僕のためなのだと気付けたというか。
父はおそらく完治はしないと思います。それでもたまに、左手をぴくぴく動かした、と言って母が喜んで電話をかけてきます。母は自分が打ち込めることができて生き生きしています。今、在宅リハビリに向けて奮闘中です。
僕は仕事をしたり、ドラムを叩いたりして、早く妻が赤ちゃんを連れて帰ってきてくれないかなと。
そんな日々です。
乱筆乱文お許しを。
ではまた。
2002年1月5日
鈴木POP
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さて、そんな日々が過ぎ、そのうち佐藤さん、なんと、電子メールをしてくるようになった。図書館のPCを使い、フリーアドレスを取得し、週末だけ図書館で受信送信できるようになった、とのことだった。
「君の日記を毎週楽しみに読んでいるよ」てなメールをくれた。僕はまあ、今でいうブログなのだが、公開していて、情けない日常をつづっていたのだった。酔っ払ってライブやって、結構めちゃくちゃだったけどよかった、とか書いていた。
「いつかライブを観に行くよ」というメールをもらった。でも、その「いつか」は全くやってこなかった。
「君が音楽を続けていられるのは、奥様のおかげなんだよ。感謝しなさい」てなメールももらった。そうかあ、と思った。
「鈴木君、酒を飲んで演奏するのはやめたまえ」てなメールももらった。うるさいなあ、と思った。
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ある日、佐藤さんからこういうメールが来た。
円盤の田口さんから、『絶望の友』の膨大な昔のライブ音源から選曲したCDを出さないかと打診された。鈴木君、動いてくれないか。まずは弓削氏に連絡を取って、CDを出していいか確認してみてくれ。と。
弓削さん。「絶望の友」後、名古屋に居を移されてからも僕はちょいちょい会っていた。弓削さんのライブが東京であるってんで見に行ったり、僕が何かの用事で名古屋に行ったときに連絡して、手羽先をご馳走してもらったり。まあでも、だんだん疎遠になっていて、そのころはもう何年も会ってもいなけりゃ連絡もしていない時期。しかしメールしたらすぐに電話が来た。結果、不承知ということでCDを作る話はあっさり消えた。佐藤さんからも「そうか」というメールが来ただけ。
で、その後も佐藤さんからはたまにメールが来たり来なかったりしていた。「ついにPCを買おうと思うんだが、安くていいやつはどれかな?」てな質問に、僕は「すみません、お近くのヤマダ電機か何かで店員に聞いてください」というそっけない返事を出したりしていた。
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んで、さらに無闇に季節は巡り、2010年の秋。
さかなやKBGはとっくに辞めていたそのころの僕は、前野健太くんのバンドをやり始め、その映画に出演。それが東京国際映画祭で賞をとり、ニューヨークなどに連れて行かれ、ウハウハしていた。楽しかった。前野健太くんというのは僕より一回りも歳下で、「POPさんがいた頃のさかな見てましたよ」とか言われていい気になって先輩風吹かせながら日々を送っていた。
で、前野健太くんのちょっと規模の大きいワンマンライブを武蔵野公会堂でやったときのことだ。
「POPさん、今日制作で入ってもらっているディスクユニオンのカネノさんって知ってます?」
「全然知らないなあ」
僕は知らなかったのだが、カネノさんはその界隈では結構な人物だということで、実際そうだった。
「なんか折り入ってPOPさんに頼みたいことがあるらしいっす」とマエケン。
んで、何ですか?とカネノ氏に問うと、
「『すきすきスウィッチ』の唯一の音源『忘れてもいいよ』を再発したいから佐藤幸雄さんと連絡を取りたい。連絡先がわかならいので教えてくれないか」とのことで少々驚いた。
なんで僕に?と問うと、
「いろいろ調査した結果、今、東京で佐藤幸雄さんと連絡が取れるのは、どうも、君しかいないようなのだ」と言われる。
あら、そうなんですか…。へい。承知しました。ってんでまずは佐藤さんに、これこれこういう人があなたの連絡先を知りたがっておりますが、教えていいですか?というメールを送る。
なんとなく「ダメに決まってるだろ!鈴木!」と怒られるような気がしていた。
んで1週間後、「いいよ」ってな返事。でカネノさんにアドレスを教える。
ほどなく、今度は佐藤幸雄さんから僕にメール。
「ソウちゃんの住所を知ってたら教えてくれ、知らなかったら調べてくれ」
…知らんがな。ってんで鈴木惣一朗さんの家の住所。調べて、教えた。
で、その後の諸先輩方のやり取りは知らないのだが、なんとなく、CDは出ないんじゃないかなと思っていた。まあ出るんですけど。
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今考えれば、これが予兆だったのか、というような不思議なことが、この2010年12月から2011年2月にかけて同時に起こった。
まず12月、カーネーションの直枝政広さんのソロプロジェクトのドラムをひょんなことで引き受ける。で、直枝さんと初めて会った時、「僕、佐藤幸雄さんとやってたんです。20年前くらい」つったら、えええ???ってすっごい驚かれて、すっごいいろいろしゃべった。佐藤さんのことしゃべるなんて久しぶりだった。直枝さん、佐藤さん・すきすきが大好きだったんですよね。もう嬉しそうに、ノリノリで話してくれた。年が明けて直枝さんのバンドで東京・大阪と回ったのだが、大阪ではアンコールですきすきスウィッチの「おみやげ」まで演奏したのだった。
・・・
んで、同じ1月、松江哲明監督からメールが来る。2月に前野健太の映像作品のイベントをやるのだが、そこに『前野健太とDavid Bowieたち』以外の形でPOPさんにも出演してほしい。で、「スカートのサワベ」という若者がいるのだが、そいつと2人でなにかやってくれないかとのこと。
は?誰それ?てなもんだったが、断れなくて、あまり気乗りしないまま、そのサワベ君ってのと打合せをしに会いに行ったのだが、そのサワベ君。なんと、僕に会うなり、こう言ったので驚いた。
「『絶望の友』の鈴木さんですよね?」
耳を疑った。
元さかなのPOPさんですよねとかは言われ慣れていたが、『絶望の友』の鈴木なんて言われるのは、かれこれ20年ぶりだ。
何なんだ君は?と。てか、おいくつなの?と問うと「23っす」というアンサー。え?てことはだよ。君が3歳くらいのときなわけで…。
どういうこと?と聞くと、このスカート・澤部くん。まあ、変態なんだな。マニアなの。おたくと言ってもいいでしょう。よく知ってるんですよね。昔のこと。
んで、このとき彼は学生でディスクユニオンのカネノさんの下でバイトもしていて、この度の「すきすきスウィッチ」再発のプロジェクトをちょうど手伝っているそうで…。不思議な縁なんだ。
あらそう、ってんで話をする。佐藤さんてどういう人なんですか?ってんで20年ぶりに思い出したことなどいっぱい話す。主に僕が怒られた話である。澤部くん、すごく興味を持って聞いてくれた。打合せ、つってもほぼ佐藤幸雄氏の話で終わった気がする。
んで、2月。澤部君とライブ。これが、とてもよい演奏ができた。リハでいきなり澤部君が『絶望の友』の曲を弾き出して、僕はびっくりしたんだけど体が勝手に反応して叩き出してしまい、そのまま演奏したりして。
「いやあ、これ、すごい曲ですよ」と澤部君は嬉しそうに興奮していたが、僕は20年間思い出さなかった曲に体が勝手に反応して叩けてしまうのに、ホントびっくりしていた。
んで澤部君とはすっかり意気投合。それ以降もスカートでたまにドラムを叩くことになった。
そのライブにはディスクユニオン・カネノ氏も来た。「すきすきスウィッチ」の再発盤「忘れてもいいよ」を手に。もらった。
あら、本当にできたんですね。と言うと、
「今度は佐藤幸雄さんを引っ張り出しますよ。そのときは協力してください」とカネノ氏。
「いや、そりゃそうなったら手を貸しますけど…、『絶対』無理ですね。『ぜっっったい』出てこないですよ。佐藤さん」と僕。
本当にそう思っていた。
確信していた。
佐藤幸雄さんはもう現れない。
約20年。人前に出てこなかった方が、なんでわざわざ出てくるのよ?
このままの日常が続くのよ。
2011年2月。僕は本気でそう思っていた。
しかし、この1か月後の3月11日、予期しなかったことが、みんなに等しく降りかかる。
平穏だった日常が崩れる。
そして僕は、その半年後、あの人と再会することになるの。
・僕と佐藤幸雄(3)「再会編」につづく。
・・・
僕と佐藤幸雄(2)「不在のとき編」
POP鈴木
2019年3月2日 僕と佐藤幸雄「それから・再会編」 初版
2019年3月6日 再版・時価
2020年5月3日・「僕と佐藤幸雄『不在のとき編』」としてweb用に修正・分割・再編集