僕と佐藤幸雄(1)「絶望の友編」

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時は1990年の4月。

僕は、鬱々としていた。悶々としていた。悩んでいた。春なのに。

 

彼女いない歴24年の24歳。大学をなんとか卒業し、コンピューター会社に職を得ていたのは世がバブルだったから。

 

学生時代は、ほとんどの時間を、ぬるま湯のような音楽サークル活動に捧げていた。だまされて入ったパンク・インディーズサークルで、僕は聞いたことのない音楽の洗礼を受けた。毎日が楽しく、ワクワクし、ゲラゲラ笑い、人生の中でもいちばんの、夢のような時代だった気がする。その流れでライブハウスにちょいちょい出演するようにもなっていた。

 

しかし卒業を機に、みんなは音楽をやめた。サークルには何の未練もなかった僕だが、しかし、音楽活動をみんなのようにやめる気にはなれなかった。まだ続けたかった。ライブハウスで。まだ続けられると思っていた。だからライブの企画を5月に設定した。

 

4月1日から働き始めた。と言っても僕の場合は研修であり、新入社員250人あまりと一緒に学校のようなところで情報処理の授業を受けていた。そいつらにはバンドのことは一切言わなかった。隠していた。休みにくくなるし、言うのはダサいし、言っても理解されないだろうし、というか理解されたくなかった。とにかく僕は君らとは違うんだよ、と自分から線を引いた。自分は彼らより浮いた存在に思えた。

 

日々、情報処理の授業を受けながら、ふと、今後どうなるんだろう、と考える。5月のライブが最後になりそうな予感はしていたし、その場合どうしたらいいのか、さっぱり思いつかなかった。音楽をやめることになるのかな、と思う。やめたほうがいいのかもしれない、とも思う。みんなみたいにやめて、普通に暮らすか。

 

机を並べた顔のない奴らをそっと見渡す。真面目に講師の話を聞いている奴、ぼーっとしてる奴、やる気をみなぎらせている奴、手鏡を出して化粧の具合を確かめている奴、寝てる奴。自分もそんな奴らのひとりになっていく。教室を満たす生ぬるい空気が僕を取り込んで、どこかに連れて行こうとする。

 

はっと、うたたねから目覚める。あぶないあぶないと思う。いや、自分は君らとは絶対に違うと思う。というか思いたかった。

 

働き始めて2週間ほどたった4月16日。

授業が終わると、誰よりも先に教室を飛び出し、一目散に家に帰って背広を脱ぎ捨てる。薄汚い黒っぽい服に着替えて、夜の街に飛び出すと、本来の自分に戻った気がした。

 

代々木チョコレートシティーへ。3月の自分の企画に出演してもらったバンドが2つ出るので、これを鑑賞し、終演後は5月のライブのチラシをまこうとしたわけだ。

 

料金を支払い、中に入るとガラガラだった。ライブハウスのにおいをかいで、ほっとする。カウンターでビールを受け取り席に着く。「さかな」が演奏中だった。たゆたうように奏でられる音楽が、ささくれかけていた心をふんわり包んでくれる。いいなと思う。生き返った気がする。

 

次のバンドというか2人組がセッティングし出した。知らない人たちだった。2人ともギターアンプをいじっていた。ドラムはいないようで、大いにがっかりした。当時僕はドラムのいないバンドには全く興味が持てなかったからだ。だけどその次が目当てのバンドだったから帰るわけにも行かない。しょうがないから見るか。てな感じだった。

 

客電が落ち、しばし静寂。何か妙に力の溢れたずんぐりしたモヒカン坊主と、世間をすねたようなちょっと嫌味な感じのヒョロっとしたお兄さんの2人。

2人は黙って顔を見合わせ、しばし呼吸をあわせる。そしてネックを振り上げ、

グワーン・ギャ・ギャーギャ・グワーン・ギャ・ギャリラーリラ

いきなり力強いハードロック。坊主は口をへの字に曲げ首を肩にめり込ませた格好で力強くストローク。にいさんは糸が切れた操り人形のようにぐらんぐらん回りながらリフを弾く。目はあらぬ方を鋭く睨みつけている。怖い。

ギャギョーン。ギャギョーン。ギャギョーン。ピタっとギターを止め静寂。そして坊主がマイクに近付きアルペジオギターと共に歌いだす。

「きーみのーせなーかにーだーれがーなくー」真っ直ぐな歌いっぷり。声はどこか甘く、熱を帯びた目は大きく開かれ上空を見据えていた。

 

正直なところ、なんだこれ? と思った。気色悪い。むさい男2人が、時にドギャーと狂人のように暴れ弾き、時に静かに歌い、時に変拍子でみょみょみょみょ弾き、足を踏みならし、叫び、曲を終わらせ、神経質にボーンとチューニングする。なんなんだこれ?

 

初めて見る料理を食ってこういう経験をしたことがある。最初、においを嗅いだだけで、うわ、なにこれ、まずそう、と思う。一口食い、うわ、まず、と思う。もう一口食い、何だこの味?もう一口、あれ?もう一口、案外いけるかも、で、もう一口、もう一口と食っていくうちに、どんどんどんどん美味しく感じられるようになり、ついにはその奇天烈な味の虜になり、皿をなめ回し、もっとクイテーと思う。

 

不思議なことに、まるでそんな風に彼らに引き込まれていった。息が合ってないような、わざと合わせてないような2本のギターがぶつかり合ったり離れたりする。その隙間でドラムの音が聴こえる気がする。2人の演奏が絶妙に絡んで、聴く者に鳴ってないドラムを聴こえさせているかのようだった。これはすごい。と思った。

最後はもうかぶりつくように食った。じゃない。見たのだった。

 

このバンドこそが「絶望の友」。ヴォーカルギター佐藤幸雄さん、ギターヴォーカル弓削聡(ユゲ・サトシ)さん。仲が良さそうなわけでもなく、楽しくやってるという風でもなく、未来のない感じで、しかし熱く演奏してた。まさに「絶望の友」という名にふさわしい2人だった。

 

・・・

 

で、次のお目当てのバンドが始まったのだが、なんだか、つまらなかった。あれ? こんなバンドだったっけ? 先月共演した時は好きだったのに。すっかり興醒めしてしまい席を立つ。帰るお客さんにチラシをまくために、出口の階段で待機していようと思った。

 

と、絶望の友のギターの人、弓削さんがそこにいた。

「あっ。お疲れさまでした。すごかったです」決して話し掛けやすいタイプの人ではなかったはずで、今考えると不思議でならないのだが、その時はとにかくとっさに声を掛けてしまった僕だ。

「はあ。そりゃどうも」何だこいつは? ぐらいの調子で彼はじろっと僕を見た。話はどうも続きそうにない。

「…いやあ。本当によかったです」

「ふーん。一体どこがそんなによかったわけ?」と、まるで喧嘩を売られるかのように問われた。

え? 何この人。初対面の人間に向かってなんちゅう口の聞き方かしら。(とその時は思ったのだが、弓削氏はそういう人物だということを後日知る)

ややびびりつつ何とかその質問に答えようとする僕。

「えーと…。その、ドラム。そう、ドラムがいないじゃないですか」

「うん、いないねぇ」

「でもドラムが鳴ってるように聴こえました」

「ほー」この答えにはなんとかご満足いただけたようだった。ほっとする僕。

「なんでドラムがいないんですか?」

「うーん。ていうか、そもそも、もう一人の佐藤ってのが一人でやってたところに誘われて、ちょっと前から2人でやりだしたばかりなんでね」

はあ。そうなんですか。と僕、「ドラムを入れるつもりは無いんですか?」

「いや。そろそろ入れたいよね、と話はしてるんだけどね」と弓削氏

「実は僕、ドラムやってるんですよ」と僕。なおも勢いでこう言ってしまった。

 

「よかったら僕を使ってみませんか?」

言ってしまってから、ちょっとしまった、と思った。言わなきゃよかったと思った。弓削氏は唖然としていた。

 

まあ、でも言ってしまったものはしょうがない。よかったら見に来てください、と持ってたチラシを渡し、逃げるように階段を駆け上がった。

 

今思えば、自分からドラムをやらせてくれと言ったのは、人生でこれが最初で最後のことであった。

 

で、すっかりそんなことがあったのを忘れ、5月の頭に新宿JAMで「パロッツ」というバンドでライブをやったのだが、なんと、そこに佐藤さんが現れた。本当に見に来てくれたのだった。

そして後日、「入れてやる」という電話が来た。

 

そして、僕の記録によれば、その5月の28日と29日にはマンダラ2と代チョコで、もう3人でライブをやっている。おそろしく展開が早いなあ、と今更ながら思う。とにかく「絶望の友」という変な名前のバンドの活動は幕を開けたのだ。活動期間はわずか1年9か月である。自分自身、その短さを意外に感じる。体感では4~5年やった気がするのだが。そして、僕にとってはその後の音楽スタイルや人生をも決定付ける、一生忘れられないバンドとなるのである。

 

・・・

 

さて、絶望の友の一員となったのだが、僕としては道場に通うような感覚だった。

もう、この2人にかかっては、僕は単なるドラム小僧に過ぎなかったし、実際僕は右も左も分からぬ小僧だったのだ。

 

大体僕はリハーサルスタジオに遅刻していく。その日も15分くらい遅れたろうか。「遅れましたーすいませーん」と入っていったら、

「お前!本当に悪いと思ってるのか!思ってないだろう!だから毎回毎回遅れるんだよ!ふざけんな!」と、弓削氏に火の出るような勢いで怒られた。

あわわわ。すいません。もうしません…。ぐっ。もう2度と遅刻はすまい、と固く心に誓った。そして僕は決して遅刻をしない人間になった、というのは嘘だが。しばらく気を付けるようにはなった。

 

まあ、怒られて当然のエピソードですが。弓削氏に怒られたのはこれ1回きりのような気がする。

 

ここで、弓削氏について解説したい。当時20代後半独身。僕より3~4歳年上だと思う。元・イルボーン、東京ギョギョームなどである。町田町蔵のアルバム「ほな、どないせぇゆぅね」でギターと編曲を手掛けていた。真面目な方だが、変わり者だ。エフェクターの音は何百通りと家で試してからスタジオに持ってくるそうだ。ギターは超うまい。絶望の友の演奏の技術面はこの人に大きく頼っていたと言っても過言ではないだろう。

 

かつ、絶望の友の楽曲の大半を作曲していた。自分の曲が出来ると、譜面をくれた。一度、ドラム譜付きの譜面をくれたので、ビビった。後にも先にも、ドラム譜をスタジオでもらったことはこれ以外にない。それを初見でやらされたのだが、私、こう見えてもドラム譜が読めるので、なんとか期待に応えることができ、その時はちょっと見直された気がする。が、結局僕は最後まで弓削氏にあまり認めてもらえなかった気がする。

 

さて、佐藤氏であるが、当時31歳独身。僕より7つ上である。当時と変わらず今も7つ上である。不思議だ。うそ。で、元「すきすきスウィッチ」である。その他の経歴については割愛する。のだが、一応告白しておきたいのは、私、そのとき「すきすきスウィッチ」って全然知らなかったんですな。なはは。

 

で、最初に練習でスタジオ入った時か何かに、「君、どんなのが好きなの?」と聞かれ、「あ、有頂天とか好きです」と言ったのだと思う。本当は有頂天とか、そんなに知らないんですけどね。そしたら、佐藤さん、「君、小林君が僕の曲を勝手に演奏していることを知っているか?」と急に怒り出して、もちろん知らないし、ケラさんの本名が小林ってのも知らなかったし、ケラさんのことを小林君と呼ぶような間柄だということも知らなかったから、ビビった。

 

あと、最初のライブを見にきた学生時代の仲間から僕が「POP」と呼ばれているのを聞きつけて、「おい、お前、ポップって呼ばれているのか」と詰問され、「あ、はい」と言うと、「そんな呼ばれ方は即刻やめろ!親からもらった名前があるだろう!俺は絶対そんなふうに呼ばないからな!」と怒られた。だから僕は佐藤さんにずーっと「鈴木」と呼ばれるのである。まあ、鈴木なので。いいんですけど。

 

で、佐藤さんにはよく怒られた。

元来、佐藤さんは高校時代に生徒会長をやるくらいの熱血漢。体育会系とはちょっと違うが、礼儀礼節を重んじる。世話好き、説教好き、講釈好き。で、僕は格好の後輩役だったのである。僕はというと、わりと素直だったというか当時は単純だったので、オス!先輩お願いします!もういっちょこーい。てな具合でむしろ進んで、しごきを受けていた格好だ。

 

練習で何かの曲をがーっと演奏し終わったとき、こう怒られた。

「鈴木!何で俺がこいうい歌詞で、こう俺が歌って盛り上がってるのに、アッチェしないんだ!」

つまり、歌に合わせて、ある部分によってテンポを上げろ、と要求してきたのだ。

歌詞をちゃんと聞け、俺が何を歌ってるのか、その意味をちゃんと理解しろ、そしてそれに反応しろ、感情を高まらせろ、その感情に合わせてテンポを速まらせたり、もたらせたりしろ、ぼーっとするなと。

走る、と言いますが、普通、ドラムってのは一般的には常にテンポをキープしなきゃいけないもので、違うバンドでは「走るな」としょっちゅう言われてきたのであって、「走れ」と指示されたのはこれが初めてだった。

「こうですか?」

「違う!」

「こうですか?」

「まだまだ!」

「こーですかー!」

「もっとー!!」アホみたいですが。マジでやってました。

しかし、元々僕は、ちゃんと歌詞を聞くという習慣がなかったし、感情のままにドラムを鳴らすといったこともあまりしていなかったので、いい勉強になったのである。本当に。これは後にやったあらゆるバンドで役立った。感情のままのドラム。今では唯一の僕の売りである。「アッチェ」という単語の意味もわかったし。

 

マンダラ2に自分のボロボロのドラムを持っていった時のこと。

僕らの後のバンドもそれを使い回すことになった。逆リハで、先に大御所バンドの高名なドラマーの方が僕のドラムをチューニングしだした。当時チューニングの仕方もろくに知らなかった僕だが。ああ、こりゃいいや。ラッキーってんで、ぶらぶら暇を潰して戻ってきたら、怒られた怒られた。

「お前!ああいう時はチューニングの仕方をちゃんと見て盗まなきゃだめだろ!」

すいませーん!仰る通りで。

 

北海道の大谷会館というところに行ったときのこと。共演は遠藤賢司バンドだった。

会場にはすでに、たいそう立派なドラムが組まれていた。エンケンバンドのドラマーの人のだ。

「鈴木。エンケンさんの楽屋に挨拶に行くぞ」「はい!」

失礼しまーす。今日はよろしくお願いしまーすと挨拶。で、僕、ここは礼儀を欠いたらまた怒られると、先手を打ったつもりでドラマーの方に、

「今日はあなた様のドラムを有難く使い回させて頂きます。光栄です」かなんか言ったのだ。するとその方、おや、と不思議そうな顔。

「え?君も使うの?それは聞いてないなぁ…」

慌てて佐藤幸雄さん「いや。違います。違います。別のドラムを用意してもらってます!」

すっかりしらけてしまった楽屋の扉を後ろ手に閉めた佐藤氏。

「鈴木ぃ!お前何のつもりであんな事言うんだ!恥ずかしい!そこいらでガキのバンドとタイバン張るんじゃねぇんだぞ!」

あわわわ。この時ばかりはさすがに僕も物凄くしゅんとした。

ステージに行くと、隅に粗末なドラムセットが転がっていた。色々な意味で悲しかった。

 

エンケンバンドと北海道というのもそうだが、とにかく、佐藤幸雄という人は物凄く顔が広くて、お陰で僕は、いろんな所に連れて行ってもらったし、いろんな人たちとタイバンさせてもらった。

 

だいたい、加入したらすぐ、佐藤氏は、「よーし、やっと念願のバンドスタイルになった。これはお披露目を兼ね、久々にツアーをやる」と瞬く間に大阪・岡山・京都・名古屋・4日間の演奏旅行を計画してしまったのである。(そのとき大阪・名古屋は割礼と一緒だった。と思う)

 

その後も名京阪はしょっちゅう行った。特に京都。どん底ハウスとか、MUSEHALLだとか。タイバンは概ね元アーントサリー現LOVE JOYのビッケさんの「積極的な考え方の力」というバンド。そもそも「絶望の友」という名前もビッケさんが付けたらしい。佐藤さんと大変仲よしだった。ビッケさん周辺の変わった京都人がいつもお客さんとして足を運んでくれて、打ち上げは決まって鴨川沿いの「まほろば」というお店で朝まで盛り上がる。すっごい楽しかった。行った先では、必ず佐藤氏の友人が泊めてくれる。どこに行っても楽しかった。

 

大阪ベアーズに行く話が決まったとき、店長でもある山本精一氏に「何とタイバンしたい?」と聞かれた佐藤さんが「想い出波止場」と答え、山本さんはそれまで、想い出波止場は自分の店ではやらない事にしていたのだが、わざわざその禁を解いてタイバンしてくれたのだ。と当時、佐藤氏が自慢していた。本当のことだった。覚えているのは、山本さんがステージ後、僕にこう言った事だ。

「もう洗面器は叩かんの?」

 

そう。洗面器。前述の初ツアーの時に僕はドラムセットに洗面器を組み込んでいたのだった。それを山本氏は見ていて、覚えていてくれたのだ。

 

「鈴木君。君ね、何か変わったものを叩かないか?」と佐藤氏に言われたのが始まりだった。

じゃあ、ってんで風呂場に転がっていたアルマイトの洗面器をスタジオに持ってきて叩いた。

カンカン。「それだよ!鈴木君」初めて誉められた。やったー。

うれしくなった僕は、調子に乗って「水に流して」という曲中で、その洗面器にじょぼじょぼと水を注ぐ、というのをやってみた。

「それだ!それだ!いいぞ!鈴木!」もう佐藤さん大喜び。

そうですか!ってんで最終的にはその水の中に大量のコインをじゃぼじゃぼ落とす、ってとこまでやった。しかしこれはマンダラ2の小倉さんに「意味がわからん」と酷評をいただき、やらなくなった。

 

でも変なものを叩くシリーズは結構やった。ガラスのコップを割ってみたり、紙風船をぷーっと膨らませてパンと割ってみたり。

マンダラ2の客席左に鉄の柱が数本立ってるのだが、ドラムを途中で止め、そこまでダーっと走ってってそれも叩いた。カンカンと。さすがにこれはやり過ぎだったか?と本番後、佐藤氏の顔をうかがうのだが、

「鈴木!今日は良かったぞ!」とご満悦。

「でも途中でドラムがなくなっちゃって、変じゃなかったですか?」

「何言ってんだ。そんな小さいことは気にしないに決まってるだろう」

そうか。小さいことか。

てな具合に、僕は益々間違った奏法を修得していく。

リズムキープ?何それ?てなもんである。

これで僕が何でこんなに下手っぴなのか分かったでしょう?

 

・・・

 

あと、ここで言っておきたいのは、「絶望の友」では「すきすきスウィッチ」の楽曲は一切演奏しなかった、ということ。これは佐藤氏と弓削氏の中で取り決められていたのではないかと推測する。

 

で、1990か91年、「すきすきスウィッチCD再発記念復活LIVE」というのがあった。元メンバーでライブをやったのである。僕は機材車の運転手兼坊やを仰せつかった。

「すきすきでドラムだったソウちゃんってのが、やってくれることになったよ」にこにこの佐藤さん。よほどうれしかったのだろう。うきうきして僕に言った。「ソウちゃんてのはなぁ、凄いぞ。もうドラムはあまりやってないんだけどな。だから2度と見られないぞ。しっかり見て勉強しとけよ」

そして見ました。そこで、なぜ佐藤さんが僕に、いろいろな変態プレイをやらせようとしたのか、わかった気がしました。

 

タムにタオル。スネアにもタオル。「ドラムはね、あんまり鳴らすものじゃないの。」

と、鈴木惣一朗氏はセッティングしながら僕に説明してくれた。

当時から細野晴臣氏のもとで活動をしていた惣一朗氏。

「もう何年もスティックは握ってないけど、音楽を作る場には居続けてるから違和感なく叩けちゃうもんだな」

その言葉どおり。凄い演奏。

だいたい、シンバルをジャーンなんて鳴らさない。

ほとんどのパーツをしっかりミュートしてるので、ポコポコ、モコモコした音色。しかしその音がいい。

ドラムフレーズも今までに聴いたことが無いような奇妙なもの。しかしなぜかそれが歌に合っている。

うーむ。これか。佐藤さんが言ってたことって。

スネアの上に無造作にトライアングルを乗せ、叩く。ぽこ、チャリーン。ぽこ、チャリーン。トライアングルは涼しげな音を響かせながらスネアの上を飛び跳ねる。そしてついには落っこちる。落ちたら演奏が終わり。あはは。すげー。

佐藤氏はと言えば、そんな惣一朗氏をもう信頼しきって、楽しそうに演奏し、歌っていた。すきすきの楽曲もおもしろいものばかりだった。

 

その日、僕は鈴木惣一朗氏にいっぱい話を伺いながら、車で家までお送りした。運転席で、家の中に消える氏の姿を最後まで目で追いながら、もう2度とお会いする事はないだろうな。と思っていた。まあ、会うんですけど、その話は後で。

 

・・・

 

佐藤さんには、勉強と称して、いろんなライブに連れて行ってもらった。そこらへんのライブハウスから、スタジアムまで。プリンスとか、デビッドボウイのティンマシーンとか。コンポステラもよく行った。篠田昌已さんにも紹介してもらった。一度、篠田さん率いるチンドンの公演を見に、どこかの演芸場みたいなところに連れて行ってもらったのだが、最後に太鼓鳴らしたおばちゃんとかが全員で舞い出して、その光景が儚くも美しすぎて、僕は泣いてしまったんだなあ。

 

あと、これは対バンの演奏を2人でぼーっと見てるときだったか、その人がMCで「今日は調子が悪くてゴメンねー」かなんか最後に言ったんだな。そしたら佐藤さん、「鈴木、調子が悪くても絶対、それを言うなよ。むしろ、今日はとてもよかったと言わないとイカン。お金を払って見に来てくれたお客さんに失礼だからな」と。ああ、そのとおりだなあと感じ入った僕。以来、いくら調子が悪くても、出来が悪くても、「今日はバッチリでした!」と言うようになった。お客さんにはね。これは今でも続けている。

 

そんでもって、佐藤さんの家にもよく遊びに行った。2階建ての一軒家で、1階は資料室だった。大概、練習の後か、ライブの後か。仲間とかお客さんも含めて大勢で押し掛けたりもした。朝までいろんな音楽を聞かせてもらったり、ビデオを見せてもらったり、いろんな音楽の話をしたり。ちょっとしたサロンだったなあ。

 

佐藤さんとは、そりゃもう、たくさんの音楽の話をしたのだが、ある日、このような謎をかけられた。

「鈴木君、僕が今こう、パン、と手を叩くだろう」

「ふんふん」

「この音がね、過去の人に聞こえてしまったら、どうしよう?」

うーーん。

 

んで、考えて翌週、

「あの、例えば、花火が上がって、離れた所にいると、音が遅れて聞こえますよね」

「うんうん、それで?」

「だから、過去の音が、未来に聞こえる、ってのはあると思うんです」

「おお、いいぞいいぞ。それで?」

「いや、そこまでです」

「違うよ鈴木、あのね、未来じゃなくて過去の人に聞こえちゃったらどうしよう、って言ってるんだよ。はいまた来週」

 

えーーー。ってんで毎日この問題に悩みまして、翌週。

「佐藤さん。わかりません。教えてください」

「おお、そうかあ。で、教えてくれって何を?」

「いや、答えですよ、答え」

「答えは無いよ」

・・・はあ?

「僕は、聞こえちゃったら、どうしよう、って言ってるんだ」

・・・え?

「どうしようなあ。困っちゃうなあ、と言ってるんだ。答えは無い」

な、な、なんじゃそりゃーー!!という話。なぜか覚えている話です。

 

・・・

 

24歳の僕は、30歳を過ぎてもバンドを辞めずにやってる人は、はっきり言っておかしい人に違いないと思っていた。当時ね。で、佐藤さん。31歳。この人はどういうつもりなんだろうかと、その精神性やその生活にまで、たいへんに興味を持っていた。自分の将来のよいお手本、もしくは失敗例としてのよき教訓にもなるのではないかと。かなり仔細にその言動を見守っていた。

 

・・・

 

突然段ボールとマンダラ2でツーマンでタイバンしたときだった。僕は突然段ボールイカ天で初めて見、その人たちと共演できたので、だいぶ興奮していた。すべてが終わり、客席で打ち上げが始まったとき、僕は蔦木のお兄さんと佐藤さんがテーブルをはさんで向かい合ったすぐそばに陣取った。この二人が何を喋るのか、たいへん興味があった。で、乾杯の後、

「佐藤君、君、結婚してないの?」と、蔦木兄さんが聞いた。

「うん、してないよ」

「なんで?あの娘は?」

うっ。と佐藤さんの顔がこわばった。

「いや、もう何年も会ってないよ」

「なんで?俺、佐藤君とあの娘、結婚すると思ってたけどな」

あっはっは、と場が盛り上がる。

が、佐藤幸雄氏は顔をこわばらせたまま、少しうつむき、しばし思いにふけるような形になったのを僕だけは見逃さなかった。そんな佐藤さんの顔を見るのは初めてだった。そして佐藤さんはしばらくして、こう言ったのだ。

「うん。後悔してるよ」

 

ガーーーン。と思ったね。当時の鈴木くん24歳は。

えーーー!と。

佐藤さんでも、こんなに自信を持って何でもやっている人でも、こんな偉そうにしている人でも、後悔するんだー。と。で、

31になって後悔するのは、嫌だっ、と。僕は心に強く刻んだのだった。

 

それで僕は、彼女を作ったんだな。職場の同僚。その人は現在は僕のカミさんなんだけど。

 

彼女できましたー。ってんで絶望の友のライブかなんかに連れてったんだが、いやいや、メンバー含め周囲が激しく動揺したのを覚えております。当時そういうキャラではなかったんですね、僕。永遠のドラム小僧だったんですよね。でも、そうじゃなくなった、というのも、絶望の友の終焉になんらかの作用をしたのではないか、とも思えています。

 

・・・

「僕たちのやってることは、今まで誰もやったことのないものなんだ。だからお手本が無いんだ。わかるか?鈴木?」

佐藤さんがよく言ってた言葉だ。

「音楽なんてものは無限の可能性があるんだよ、鈴木君」と、佐藤さん。練習後はよく飲みに行き熱く語り合ったものだった。

「もっと勉強だ。お互いな。鈴木!」「はい!」よーし。がんばるぞー、と思ってた矢先だった。

 

佐藤幸雄さんの口から、「『絶望の友』をしばし休ませたい」てな言葉が出たのを聞いたのは、1992年の1月か2月。

 

いつものようにスタジオで練習した後、折り入って話したい事があるから付き合いなさい、ってんで、わりと久しぶりに佐藤さん・弓削さん・僕の3人がそろって笹塚の居酒屋へ。生ビールを半分ほど飲んだくらいの頃合いでその爆弾のような発言がなされ、僕はしばし思考が停止したし、思考が停止していたので、かたわらの弓削さんが「はあ?」と言ったのか「なんで?」と言ったのか、はたまた全く別のリアクションをしたのか記憶がない。

 

しかし、佐藤さんが理由、というか、事の次第を説明している途中で僕は、ああ、と思い当たるフシ。があったので比較的すぐ状況を理解できた。

 

そのフシとは。

数か月くらい前、練習後だったかライブ後だったかに、連れられて佐藤さんの家。くつろいでいると、留守番電話を再生した佐藤さんが、「また無言電話だ。いやだなあ。何か残せよなあ」とつぶやいた。ご承知でしょうが、携帯電話も無ければEメールなんてものも無い時代。若者はすべからくアパートに電話線を引き留守番電話を設置し連絡を取り合っていたんである。さらにバンドマンは「お問い合わせはこちら」ってんでライブのチラシに堂々と電話番号を記載していたのだった。さらに佐藤さん。マメというか変わっているというか。留守電の応答メッセージを毎日変えていた。「今日は何時までどこそこにいます、何時には帰宅します、ではメッセージをどうぞ、ピー」てな応答メッセージを僕も何度も聞いていた。

というのがその「フシ」である。

 

早い話、佐藤さん、結婚することになったんであった。その相手こそ、無言電話のヌシで、佐藤さんと直接話したくはないけど、佐藤さんの声は聞きたくて、留守の時間帯を見計らって電話していた。でも、ある日、たまたま平日の昼間かなんかに家にいた佐藤さんが電話に出た。で、なんかあって、結婚することになったのだった。

 

んで、結婚相手の街に住まざるをえない状況で、遠いところなので、バンドはいったん休止、ということだった。まあ、そういう事情なら、状況がナニするまで…と、僕は思った。弓削さんは、到底納得できない様子で、かなり怒っていた。

 

1992年2月10日、超満員のマンダラ2。

結局この日が実質、『絶望の友』のラストライブになった。

 

最後に演奏したのがは弓削さんの「水に流して」という曲。

歌の1番は僕が歌った。歌っている途中で、この1年10か月間が走馬灯のように思い出され、こらえ切れず泣いた。

 

その後。

ほどなく弓削氏も名古屋に居を移してしまった。遠藤豆千代さんの『全滅三五郎』などでご活躍された。

 

そんでもって僕だが。

 

佐藤さんとは、マンダラ2の最後のライブで、じゃあ、って別れてそれっきりとなった。

数日後の引越しを手伝う約束をしており、その日がいついつ、と聞いていたのであるが、僕が日にちを間違えたのか、佐藤さんが違う日を教えたのか。とにかく気づいた時はもう、佐藤さんは東京から姿を消していた。

 

まあでも、また近いうちに会える日が来るのだろうと軽薄な考えで暮らしていたのだが、そんな日はやって来なかった。

 

そのころの僕の心境は、せっかく本気で好きになってきた年増女が不意に忽然と姿を消し、 「なんでぇ」とむくれつつも、身悶えしている少年。といったところか。

 

あんな事こんな事、色んな事を教えてくれた年増女が。

 

 

・僕と佐藤幸雄(2)「不在のとき編」に続く・・・

popsuzuki.hatenablog.com

 

 

僕と佐藤幸雄「絶望の友編」・完

 

POP鈴木

2019年2月23日 初版

2019年3月6日 第3版・時価

2020年5月2日 そのままweb版として公開

2020年5月4日 ラストをこっそり変更