泥酔日記 20220321-24

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20220321(月・祝)

港区での落語会に誘われて、ありがたい!てんで嬉々として参加。あまり行ったことのない地域であり、googleMapで調べたら、まあ、徒歩+電車で1時間5分の行程。んで、自転車での行程を調べると55分。なーんだ。じゃあ自転車で行こう、ってんで、ビールをお供に。んで、だまされた。googleMapに。だって1時間半くらいかかるじゃんか。わかってたけどね。

 

んでも、着いたよ。ヒーヒー言いながらチャリを路上駐車し、その高級レジデンスの1Fの入り口の手前で、変なインターホンをがちゃがちゃがちゃがちゃしてたら、爺い警備員がお出まし。「落語しにきたんですけど〜」つったらますます不審者扱いされ、あれ?おっかしいなあとか思いながら、超無愛想な爺い警備員に案内されたところは、しかし、目的地である高層レジデンスの1Fの集会室。共演者に聞いたら、なんと2Fが本来の入り口であり、そこにはコンシェルジュ姉ちゃんが2人もおり、名前を言えば丁重に通されるのだった。それ知らないから。爺い警備員に嫌な顔されながら入っちゃった。なはは。

 

んで、落語会はサイコーだった。んで、そのレジデンス住人の28Fの部屋で港区を展望しながら飲み会。めっちゃ楽しかった。んで、めっちゃ飲んだ。んで、かなり夜景になってきてからチャリで帰る。2時間。無事帰宅できてラッキー。

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20220322(火)

完全な二日酔い。妻に、お前まさか昨日港区に自転車で行ったのか?と詰問され、そうだよ、と言ったら、コンコンと説教される。何でダメなの?と真顔で問うと、だって、危ないでしょ!酔っ払ってそんんんな遠いところから自転車で帰ってくるなんて!と怒られたので、酔っ払ってないよ。と言うと、はあ?と凄まれたので、お酒なんか飲んでないもん、と赤子でもすぐわかる言い訳をかましてやると、心底呆れられた。あんたそのうち死ぬわよと、指摘され。うん。そうだね。ごめんと謝る。

 

そんでもってこの日は、スッゲー仕事をしたのだった。二日酔いなのに。んー、別に偉くないか。ふつーだ!

 

20220323(水)

朝起きると、爽快。二日酔いが抜けてるからね。んで、午前中に、仕事のスケジュールを確認すると、懸案の仕事は明日降りかかる、んでも、その下準備を昨日酔っ払いながらカンペキにこなした形跡があり、ありがとうございます、ではすみませんが明日よろしくお願いいたします。てな返信が来てて。そうか。明日かと。憂鬱になる。

しばし、ぼーっとしていたが、ああ、つまりは明日そのアホほど嫌な仕事があるが、今日はやることがない。てことは、今日は1日、ちょっと自由に生きよう!と方向転換。昼前に散歩をかます

私は、痛風の気があるので、あるメーカーのプリン体0のビールをこよなく愛し飲んでいるのだが、我が家の冷蔵庫にそれが1本しか残っていなかったので、その1本をお供に、酒屋へ買い出し兼ウオーキング兼散歩と洒落込んだワケだ。片道1時間。んで、その特殊なビールを売っている酒屋についたのだがまさかの水曜日は休み。んで、どこにでもあるコンビニで280円の赤ワインを買い、それをラッパ飲みしながら帰宅した昼過ぎ、酔っ払いながらスパゲッティーかなんかを作って食って昼寝してたら、落語仲間から呼び出しをくらい、阿佐ヶ谷で飲む。んで、まだ17時だ。さあもう一軒行こうと言われたが。ことわったね俺はついに。だって、明日大事な仕事が朝からあるからね。大人の判断を久々にかましたね。さすが。56歳。ブラボー!

 

20220324(木)

んで、朝6時半くらいに起き、身支度を調え、9時からスタンバッて10時半からある大物俳優の合同リモート取材。僕の最も苦手とする類の仕事。んで、1時間。無事終わる。んで、一服して、レギュラー仕事をしに渋谷へ。んで、そこで超ファインプレーをかます。すげーな俺。奇跡持ってんね。んで、昼飯をアホほど食って、本社のある外苑前へ移動し、どーでもいい仕事をこなし、夕刻高円寺へ。落語の会の集まり。んで、飲み会。んで、23時半くらいにお開きになったのだが、モーイッケンイコーヨーと高円寺の中心で叫んでたら、落語会で一番可愛い女の子が付き合ってくれた。んで、二人でコンビニで酒買って高円寺駅前の公園で2時間くらい。ありがとうー!んで、帰ってきて、これ書いて。おお。3時だ。寝る。あしたからそのインタビューの原稿を書く!角!かく!と思う。まあ、〆切は水曜なので全然大丈夫。ではまたらいしゅう!

 

 

 

正直日記_20220306~13

20220306

昨日グラウンドで野球の練習をし飲み、風呂に入ってからひかりのうまに行って演奏もし、痛飲して帰った私。起きるとものすご筋肉痛。ほぼ1日中寝る。「ほぼ」というのは、13時から15時にかけて近所の川周辺を散歩したからであって、なぜ散歩したかというと、筋肉痛を実感したかったからで、痛いなあ。。〜あ〜痛い!!!とか言いながら近所を散歩したかったんだ。てか昨日野球の練習に参加したのは、これを味わいたかったからなんだな。変態なんだ。何言ってんだこいつ。馬鹿。嘘つき。と思う方がいらっしゃったら、それが証拠に超筋肉痛で近所を2時間散歩していただきたい。しないか。んで、帰ってすぐ泣きながら夕寝に入ったのだが、20時前に叩き起こされ、お前がR-1を録画してるようだが、大河を録画にして、リアルタイムでR-1を観たい、という家族一同の申し入れ。わかった。いいよ、ってんでチョー筋肉痛の身体で起き上がってのR-1をリアルで見る。俺はzazyびいきだったので、思うところはありまいたよ。マジで。まあでもいーんだけど。ゆーしょーがzazyじゃなくても。でも、なんつーか。こないだのM-1の時と一緒なんだよなー。贔屓にしてる芸人が優勝しない。ここ十数年必ずだ。いいんだけど!俺の感覚が悪いんだから。完全に!

20220307

んで、月曜。筋肉痛は昨日より激しくなるわけだ。これはもう5捨6入で60だからな。おとといから。んでも、デスクに座り、やりたくない仕事をやったさ。必要以上に。サラリーマンだから。途中で、あ!と思い出して、コロナ#3接種の申し込みを行う。明日もあったが、うーん、と思い、その次に空いてた、0311の金曜を予約。

20220308

朝9時、近所の整形外科医者に行く。てか毎週行ってるんだけど。マジ気持ちよかった。筋肉痛治る。んで、帰って仕事だ!と思ったらその仕事が来ていない。完全に来ているはずの。来ていると言う約束だったやつが。。瞬時にやる気が萎え、んじゃあ、筋肉痛の続きでもやるかと思ったら、来た。2時間後に。くるんかい。しょうがないので仕事に没頭。まあ社会人ですし。この1~2週間頭を悩ませていたクソ仕事。そんなこと言っちゃダメよ!そうですね。すみません! 3時間マジ集中し、成果物を送りつける。これで俺は自由になった!完璧に。ビバ!ビバ俺!、遅い昼めしを食い、好きに過ごす。

20220309

昨日、この1~2か月頭を悩ませていた一連のやりたくない仕事が完全に終わったので、仕事をサボって良いことになる。んで、落語の爺さんのランチ会に出席。帰ろうと思ったら昼カラオケに誘われる。断ろうと思ったら、同席したメッッチャ可愛い落語同士女が行くと言うので行く。んで、夕方、地獄カラオケは終わるのであるが、店を出たらまだ世間は明るい。日がのびたんだなあ、ってんで軽くいっぱいのつもりで向かいの居酒屋で飲む。なぜか、家に帰り着いたのが深夜2時。寝る。

20220310

毎朝8時に起きNHK連続朝ドラ見るのを日課としていたのだが、この日は起きたら完全に終わってた。そして、超絶二日酔い。こんなに気持ち悪いのは何年かぶり。思えば昨日は昼の13時から26時くらいまで切れ目なく飲んでいたのだなあ。あはははは。あほちゃうか。。てんで普段ならすべての予定をキャンセルして寝込むとこだが、週に1回しかない絶対出勤しなければいけない日だったので、そのことは昨日から知ってたけどってんでやたら水を飲んだりシャワー浴びたりコーヒーをがぶ飲みしたりしてどうにか出勤しようと。思った12:38、所属している落語同好会の野暮用が急遽発生し、多分、今やらないと俺はそれをやらない人間だ、と思った私は、会員に連絡メールなど打ったりなんかして。結果遅刻して仕事場。何食わぬ顔をしながらとりあえず任務につく。完全に酔っ払っているので、何か話しかけられても、うーーーーんん、とか言ってごまかしてたら、別に二日酔いでなくても、万事、そーゆーふうである私ことダメ社員は、誰に疑われることもなく仕事を終える。ビバ!んで、仕事場を出るや否や、コンビニに駆け込み、ビール500mlを購入、んごんごとのみ、人間に戻る。迎酒ね。んで永福町大勝軒で吐きそうになるくらいラーメンを食うのが日課、じゃねえや慣例ね、週に一度のお楽しみなのだが、よっぱらってるので判断がおぼつかず、それをやめ、方南町ドン・キホーテペヤング超大盛りと追加でビールを購入し、その追加ビールを飲みながら自転車で家まで帰り、空腹に任せてその、殺人的な量の焼きそばを食らい、吐き気を抑えながら寝る。本当は落語の稽古会があり、前述の件もあり、出席するつもりであったのだが。寝る。

20220311

今日は本当は仕事を休むつもりでいた。てなあ、朝11時に阿佐ヶ谷の某所で#3回目のコロナワクチン接種を受けるからであって、いや、通常なら仕事なんか休んでもいいんです。でも、昨日の仕事の一部がある事情で止むを得ず今日に持ち越しになってて、それがリモートでできることなので。やることになってるんだ。んでも、なんだか知らないけど、私の会社のレギュレーションでは、接種を受ける日及び翌日は、仕事をしてはいけないくらいになってて、これは多分僕の読み間違いなのだが、とにかく勤務時間にしちゃダメという、珍しいルールで、完全に今日は有給休暇の日なのに、ってんで、文句言いながら昨日は。あと副反応があるかもしれないなーとか、ぶつぶつ言いながら職場を後にした私だったのだが。ファイザーファイザーでぴくりとも副反応しなかった私なのだが。

んでこの日、とにかくモデルな注射を打たれた後も全然平気な私。「今日は飲酒を控えてください」と言われたけど、うるせー。こちとら有給休暇だってんで昨日二日酔いだった反動もあり、迎酒。手酌酒。日光浴びながら。ビールをがぶ飲みし、昼には家におり、その仕事を待ってたのだが、結局夕方まで待たされ、まあ、いいや、ってんで、こなして、夕刻。完全に解放され、やれやれ、今週は疲れたなーかなんか言って飯食って寝たのかな。

20220312

明け方、強烈な寒気で起きた私。あれ?これは。と思ったよ。

まあ、結論から言いましょう。この日は完全な副反応。39度まで熱が上がり、幻覚を見ながら1日中寝てた。なんか、この1週間で、てか折しも56歳になってからだが、筋肉痛で2日くらい半分寝て過ごし、それが治った途端2日酔いで1日寝て過ごし、んで昨日ワクチン打って今日終日寝てたのだ。全身が痛い感じもするし、高熱でクラクラするし、今日がいつなのか、今、何なのか、本当に56歳なのか、俺、大人なのかもわからなかった。何かのギャグなのかなと思った。んで、マジで、明日、下北沢で太鼓叩かなきゃいけないんだけど、そもそもこんなに熱があったら映画館に入れてもらえないかしらとか、朦朧と。丸一日。映画館にいろんなものを忘れていく夢を見る。

20220313

はっと、目覚めた明け方、ここ1週間ぶりな爽快さがあり、しばし、寝床で目をパチクリかましていたが、あ、と思って寝床にあった体温計を脇に挟むと、36度台であった。ビバ!

起きて、爽やかに飯を食い、爽やかに腰に効くヨガをやり、爽やかに朝風呂に入り、ゆうゆうと身支度をして、下北沢の映画館。んで演奏。終わると、落語同好会のセルちゃんてのが来てくれていたことに気付く。もう3年、落語会をやっているが会員の方でライブに来てくれたのは初めて!すげー嬉しくて、打ち上げに誘う。んで、由緒正しき下北沢王将で、アホほど飲む。すげええー楽しい打ち上げだった。てか、いつも楽しーんだけど。んで、帰る。んで、これを書き始め、書き終わる。23:44。もう1っパイだけのんで、タバコ吸って寝るだろう。

そして来週こそ真面目に働いて生きようと思う。

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毎日がキミの誕生日

56だ。昨日までは四捨五入で60だったのだが、今日からは五捨六入しても60である。

我ながら、大人になったなあと思う。これからは大人として振る舞いたい。

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というわけで、ーどういうわけだ?ー、午前11時からから野球。死ぬほど疲れる。んで昼飲み。

んで帰って昼寝して風呂入って夕刻サラサラヘアーを風になびかせ、自転車で大久保ひかりのうま。激演奏。知らないお客さんにドラムをめちゃくちゃ誉められる。^_^めちゃうれしい。

んで、演奏後、ライブハウスで飲みながらプーチンや戸籍制度について激論を交わし、んじゃまたねー。つってチャリを激こいで、激帰宅。晩飯食ってねーから激腹減ったが、ビールでそれを誤魔化しながら、激寝る。

多分あしたは激筋肉痛。もしくは明後日。ねる。いい誕生日だった。あ、佐藤幸雄さんからビール券もらった。誕生日プレゼント。ありがとうございます😭

因果応報

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朝11時の陽光を浴びながら自宅=集合住宅3Fの南窓を越えベランダで一服しながら、

明日から3月かと。

もう直ぐ春ですねえと、

いい気分に浸っていたら隣家の窓がガラガラピシャッと閉まる音を聞く。

ああと。

しまったと。

煙草の煙が匂いが隣家の奥様の鼻腔を刺激したのであった。

やっちまった!注意していたのに!

というか、昨日までは寒かったので、隣家も暖房をつけ窓を密閉してたので。

へーきでベランダで喫煙に及んでいた私だったが、そーゆー冬の時期が終わったのだなあ。やはりこれからは北側の玄関出た外階段で吸うべきだなあと。

 ■■■■

丸2年リモートワークしていたツケであろう。めっちゃ太った。

完全な運動不足。

とはいえ通いのサラリーマン然とした時代も特に運動などしていなかったのだが、

いわんやリモートにおいておや。である。ナニが? おやおや。

んで、とにかく運動を、ってんで、歩行である散歩である。人間歩かなきゃ。てかここ2年歩いてないのである。死にたいのか?

 

てなわけで散歩。図書館に本を返しがてら。お供はやはりビールである。悪い癖である。もはや治らないのでR。なんだRって。

 

午後2時の陽光。空に浮かぶ雲がへんな形しとるなあ。とか思いながらビール飲みながら煙草を。人がいない露地。ロジ。ロジスティクス。うそ。林などで。持参した350mlを飲み干し、八幡宮入り口のコンビニでビールを買い足し、ほろ酔い加減で図書館到着。片手に持った半分くらい残ったビールはコートのポケットに隠し込み、図書返却。んで、尿意がちょうど臨界点に差し掛かっていたのでトイレ。と、コートがビショビショ。ビール缶がポッケの中で横倒しになっとった。あああ。

ションベンしながら、男子小便器の上にポッケに入ってるものを全部出す。鍵・携帯電話・煙草。すべて濡れていた。外側は。中身は平気。

 

んで、図書館を後にし、川沿いの道でタバコを口に咥え、ライターを探す。まだポッケにあった。そして火が付かなくなっていた。そりゃそうだ。濡れてるからね。

ここで、あたくしは思った。ああ、これは、春の日差しの中で久しぶりに窓を開け悦楽に浸っていた隣家主婦の喜びを、タバコの煙で台無しにした因果応報だと。

 

んで、罰として家まで煙草を我慢して帰宅しようと思った。のだが、神社手前でニコチン中毒の発作が起こり、んでも家に乾いた100円ライターが100個ある私は、これ以上ライターを家に増やしたくない。購入したくない。もったいない。んで、文房具家兼煙草屋に駆け込み、マッチくださいと言う。マッチは10えんだから。

 

そしたら店の若い衆が、『お売りできるマッチはありません』と言う。

はあ?。。。お売りできないマッチならあるのか?と聞くと、

あると言う。

はあ?

タバコをお買い上げいただいた方に、差し上げるマッチがある

と言う。

ああそう。ならこの、この世で一番コスパの良いwest1ICE FRESH をくれ、と言うと、

そんなものは無い。と言う。

理不尽さが複数に及び、絶句する私の鼻先で窓ガラスがピシャリと閉められる。

 

泣きながら家に帰り、100個あるライターに手をのばす前にくだんの湿ったライターを擦ってみたら火がついた。つくんかい。

 

 

 

 

 

僕と佐藤幸雄(3)「再会編」

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注意・続きものです。初めから読みたい方はこちらから↓

popsuzuki.hatenablog.com

 

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■僕と佐藤幸雄(3)「再会編」 

 

んで、2011年の9月。

ビール飲みながら鼻歌まじりでメールをチェックしていたら、

「鈴木君演奏前に酒は飲むなよ」というタイトルのメールを発見する。

佐藤幸雄氏からである。

 

青ざめて中身を開いて見ると、きたる9月24日に上京し、篠田昌已さんの墓参をしたのち、スカートのライブを観るから招待したまえ、出番は何時だ?とある。

 

えええええっっ?マジか?

 

PCの前で思わず小便を漏らしてしまう。

どうしていいかわからない。

とりあえずスカート澤部くんに「どうしよう怒られるよう」とメール。

 

のちマジかマジかマジカマジカと叫びながら家の中をぐるぐる歩き回る。

どうしたの?と妻。

佐藤さんが来るんだって。

あら、佐藤さん。懐かしい。と妻。のんきに言う。

いや、違うんだ、と。

今までは手紙とかメールだけだったけど、佐藤さんが20年ぶりに来る、ついに現れる、ってことは、また音楽活動を始めるってことなんだよ!そしたらまたあの怒られる日々が始まるってことなんだよ!

と言うと妻、驚いた顔で僕に言う。

「ええ?あなた、まさか、また佐藤さんとバンドやるつもり?」

え?

あ、そうか、

と。

そういう考え方もあるのか、

と。

つまり、佐藤さんは来る、けど僕は佐藤さんと一緒に音楽活動はしない、という考え方。

 

そういう発想は無かった。

 

・・・

 

後日スカートのスタジオリハ。

 

「佐藤さん来ますよね!」と澤部くん。「どうしましょう? やっぱ怒られるんですかね?」とビビっている。

そりゃあビビるだろう。僕が彼に話した佐藤さんの思い出の全ては、僕が怒られたエピソードばかりなのだから。多分に誤解を生じた佐藤幸雄像が彼の頭に出来上がってしまったに違いない。

 

んで僕。

「いや、オレはもうビビるのやめたよ。静岡から50過ぎのおっさんがやって来るだけの話だよ。20年というブランクを引っさげてね。それだけの話なんだ。ビビることないんだよ」

強がりのようにも聞こえるが、実は本心だ。

 

20年!

実際、20年なんだ!

このスカートの澤部君は23歳とかだし、ベースの清水くんやらピアノのユウスケくんなんか22とか21なんである。彼らが1歳とか3歳だった頃の話なんだ。時間としては。

 

それにこの僕。このとき45歳。なんと!45だよ!あれから20年。いろいろやった。大したことないにしてもだ。少なくともキャリアとしては佐藤さんより長くなったはずだ。なーにを。ナニをビビる必要があんねん。と。酒飲むなだ? オレの勝手じゃねえかボケえと。まあ、やっぱりちょっと怖いから飲まないつもりだけど。

 

それに佐藤さんだって、なんか、こう、恥ずかしそうに来るんだろ、と思っていた。来てもライブだけ観て、すっと帰っちゃうんじゃないかな、とか。だいたいが、本当に来るのか? とも疑っていた。なんだかんだ言って来ないんじゃないのかなと。半信半疑。

 

まあでも、9/24までの数日間を、なにか地に足がつかないような、ふわふわした気持ちで過ごしたのは正直なところだ。9/24はスカートのライブの日、と思っていなかった。佐藤幸雄に会う日、としか考えていなかった。

 

・・・

 

んで、その日。

 

池袋駅に降り立った僕であったが、まず、池袋orgという店がどこにあるのか全くわからなくなってしまった。HPの地図を1回見ただけで行けると判断してしまったからだが、池袋なんてよく知らない街であった。澤部君に電話して道を教えてもらう。

 

さんざん迷ったあげく、地下1階の居酒屋の更に地下の店に入り、僕はちょっと愕然とした。想像していたライブハウスと違っていた。失礼な話だが、部室?と思った。

狭い横長のスペース。その長い辺の壁に一列に、アップライトのピアノ、ベースアンプ、小さいドラム、ギターアンプが並んでいるといった風情。ステージと客席の間はフラットで、仕切りも段差もなーんにもない。てかどこまでがステージでどこまでが客席なのか全くわからない。

ドラムにはマイクなど立てない。アコースティック用の場所かしら? とも思ったが、それなりに音量は出してもいいのだった。

 

音を出しサウンドチェックをするのだが、ドラムにモニタースピーカーなんてものも当然なく、ピアノの音が全然聞こえない。いや、店はいい。そういうスタンスなんだから。やるんだったら僕らスカートが音を控えめにしなければならないのだ。てか僕が。んでもそういうアレンジでの練習は一切していない。

 

悩んでいると、

「ポップさん、菜箸で叩きます?」と澤部くんが急に言ってくる。

…いやあ。

ってんで僕は黙考。僕だけが音を小さくしても意味が無い。し、そもそもスカートは菜箸では叩けない。だってそういうアレンジだから…。今からアレンジし直すなんてのは不可能。方針が出ないまま時間になり、リハ終了。

 

いや、悪いのは僕だ。どういうハコなのかを事前にちゃんと聞いておくべきだった。

今日に限ってすっげーでかい音が鳴るスネアを持ってきちゃったし…。

スカートの若い衆はジュンク堂にマンガを見に行くと言って仲良く出てしまった。

 

僕はよく知らない池袋の街をさまよう。また別の日だったらすぐに気分を立て直すところであるが、佐藤幸雄氏に自分の20年の成長を見せつけようと張り切っている日に、これはないだろう、という失望感と、それでもどうにかベストな感じを出すにはどうしたらいいのだろうという思案。っていう時に必要なものは何だ?

迷わずコンビニでビールを購入。まあまだ時間があるので、本番までには酔いも醒め、佐藤さんにも気付かれまい。

 

んで、意外に池袋って寺が多いんだなあ、などと思いながらビール飲み飲み徘徊した初秋の夕刻、出ました。あたしのこの日の方針。

 

とにかくテンション上げてガーッとやる。です。

てか、いつもと同じなんですけど。はは。

 

だいたいこの日の主催者が僕のそういうスタイルを好きということを小耳に挟んでいたので、だったらそれでやるべきだと。少々の聞き辛さなどは関係ない。テンションだと。またぎゃーとか叫ぼうと。

僕は、さかなをやってたとき以外、もう何年もずーっと、ぎゃーっと叫ぶスタイルでやっていた。今更なにか取り繕ったって意味がない。そもそもそんな来るか来ないかわからない佐藤さんのためだけにやるんじゃないんだし。いつも通りでいいんだ。と。

どうです、この僕の窮地を脱する発想の転換。すごいでしょう。ははは。ま、人はそれを単なる開き直りと呼びますがね。実際その通りですけどね。

 

で、もうぼちぼちorgも開場した頃なので、うどんを食って、店に戻る。

が、店に降りる階段の前で、はたと立ち止まる。

 

もし、もう佐藤さんが来ていたらどうしよう?という思いがふとよぎったからで、演奏前には佐藤さんとは会いたくなく、できれば演奏終了後に少々言葉を交わす、くらいが理想なので、もうちょっと入店を遅らすか。たばこ1本分くらい。と思い、つっても店の前の歩道は路上禁煙だ、ってんで、面した大通りを横断して向かいの歩道。コンビニ前のガードレールに車道を向いて腰掛け、一服。行き交う車とorg前の歩道を歩く人を、車道越しにぼーっと眺める。

 

と、右からある人物が歩いて来る。

orgの看板をチラと確かめると、その階段を降りて行った。

 

…見間違う事はない。20年ぶりに見る佐藤幸雄氏であった。

 

僕はその右から歩いてきてチラと看板を見て階段を降りる、という残像を5回くらい脳内でプレイバックしたのち、ああ、たいへんだ、と思った。

 

急いで傍らのコンビニに入ってビールを購入し、プシュッと空け、んごんごと飲み、また町内を1周徘徊。そうこうするうちに、もうホントに出番の時間が迫り、尿意もハンパなくなり、もういいや、ってんで恐る恐る入店する。

 

入り口をはいってすぐは客席の右横である。そこからとりあえずパンパンに人が居る薄暗い店内をこわごわ見渡す。あれ?いないな、と思った瞬間、50cmも離れていない目の前の人物の後ろ頭が佐藤さんだと気付き、はへえ~、と声にならない驚嘆の声を吐いた後、摺り足バックで出口まで戻り、階段を地上まで駆け上り、はあはあと荒い呼吸で路上にへたり込む。

 

立て直し。

とにかく脇目もふらずに演奏者とお客のわずかなスペースを通り、入り口と反対端のトイレまで行き、のち楽屋代わりのその奥のスペースで縮こまっていよう。ってんで再チャレンジ。

 

入り口をくぐり、息を殺して前バンドの曲の間合いをはかり、今だ!ってんですっと佐藤氏の脇をすり抜けた瞬間、がっと腕を捕まえられる。

「鈴木君!」

ええええ???

恐る恐る振り向き、ああ、どうも、かなんか言ったんだな僕は。

それですぐ、あの…、あっち行きますんで…、かなんか言って演奏者の真ん前をゆらーっと歩いて向こう側まで行ってトイレにこもる。

あわわわわわわ。

んでトイレを出て、奥の奥~の澤部君の彼女が座ってる後ろかなんかに隠れるようにしゃがみ込んでがたがた震えていた。

 

んで出番。

 

とにかく佐藤さんの方は見ないようにして下だけを見てセッティング。

そこへ、

「POPさん、あの…」

っつーおっさんの声が頭上でしたので、ひいっと顔を上げると、DISK UNIONカネノ氏。

なななな、なぜステージ上にカネノ氏が?と思うが、もとよりステージも客席もないスペースである。

「佐藤さんどこにいます?」と問われる。

 

はあ?

 

カネノ氏。このおっさんがすきすきスウィッチの再発をしたのだ。

このおっさんに去年、佐藤さんの連絡先を教えて、と言われたのだ。

そんでもって今回の佐藤さんを引っぱり出す、という一連の運動の首謀者はこの人なのだ。

そのカネノ氏は、佐藤さんの顔がわからなかったのだ。

 

あそう、そうかあ、あはは。

 

「あそこらへんにいますよ」と僕は手だけでステージから客席向かって左側の入り口付近を指差す。

え? どこ? わからないなあ、とか眠たい事を言うから仕方がない。思い切って僕はそっちを自分でも見やると、佐藤さんは左っかわのすぐ真ん前にいた。

「あ、あ、あの人です…」

 

この日ほど演奏早く始まれ!と思った日はない。

 

んで始まった。僕は割と早々にぎゃーっと叫び、がしがしいった。

んでもピアノが聞こえなくなるのが嫌なので、少し抑えたり。でも、がーっと。

集中集中、と思ってやっていた。まあでも、その時点で集中していないんじゃないかと思うのだが。

 

じゃん、つって曲が終わると超満員のお客さんも、うひょーなんつって凄く盛り上がってくれていた。ありがたい。

 

んで何曲かやったあとかな。ふいに、

「サワベ!チューニングしろ!」という野太い声が客席から上がる。

どっと客席がウケる。

カネノさんだ。

へえ、カネノさんって案外そういう気の利いたヤジも言えるんだな。と思った。

 

んでまた曲が終わる。

「ピアノのチューニングが合ってない!」と叫ぶおっさんの声が。あ〜も〜二度も言ったらウケないのに。

澤部くんは、えええ?…でも、ピアノの調律は無理っすねえ、ここのピアノって調律してますか~?なんつって。客席もまだクスクスしてたな。

やっぱ、気が利かないんだな、カネノって親父は。と思ってたんだ。その時まだ僕はホントに。

 

んで、次の曲が終わった後、

「サワベ! ギターをピアノに合わせてチューニングしろ!」と叫ぶおっさんの声。

 

あれ、もしや? と客席左を見やると、果たして、その声の主は、佐藤幸雄氏であったのだ。

 

「ピアノのチューニングができないのはわかってるんだよ! だったらキミがギターをピアノに合わせてチューニングしろ!」

客席は水を打ったようにシーンとした。

 

えええええ?

マジか?

マジでか??

あわわわわ。

 

だって…。そんな人いる? って思った。

どんな人って、

演奏中に何回もチューニングが違う、って叫ぶ人。

っていうか、20年ぶりにライブハウスに来て、そんなこと叫ぶ人…。

 

あわわわわ。と思いながらあとは残り数曲を夢中で演奏したのだろうが、よく覚えていない。

 

で、演奏終了。

気付けば汗ビッチョびちょ。

 

実はこの日はフェーン現象で酷暑。加えて前日の台風で店の空調がぶっ壊れていて、客でぎっしりの店内はサウナのような暑さだったのだ。が、演奏中は暑いことに気付かなかった。

 

終演し、暑さから解放されるべく客が出口へと向かうのだが、僕はとにかくそっちは向かず、佐藤さんと目が合うのを避けるように、うずくまってドラムの片付けをのろのろとする。

 

ふと、また、

「POPさん」と頭上で声がするので、ひいっと顔を上げると、またカネノさん。

 

「佐藤さんこの後すぐ新幹線で帰らなきゃ行けないってんで、一緒に出ますね」

 

え? あそうですか!

助かった!

 

ってんで、片付け、店の奥に機材を押し込み、とにかく着替えなきゃな、とか思案していると、映像の岩渕君ってのが。

「POPさん、来てください。上で佐藤さん待ってるんで」と呼びに来る。

 

えええ?マジか…。

 

んでもそりゃそうだなと。怒られようと。

 

んで澤部君とかと路上に出るのだが、路上にはいず。

どこかの喫茶店に入ったらしい、という情報が入ったが、どこだかわからない、ってんで岩渕君が携帯で必死にカネノ氏と連絡をとっている間、僕は、

「見つかるなあ!このまま!」と路上で叫んでいた。

 

で、はす向かいのベローチェにいる、ってんで一同で向かうのだが、

僕は悪い事をして呼び出され、校長室に向かう小学生の心境であった。

 

んでベローチェ

 

佐藤さん。

 

「すずきー」つって僕に抱きついてきたんである。

僕はまだびちょびちょだった。

 

んで、忘れてたのだが、澤部君によると、僕はその時抱きつかれながら、

 

「許されたー!許されたー!」

と叫んでいたのだそうで、確かに、そう叫んだことを後日思い出した。

 

ベローチェには10分いたのかいなかったのか、よく覚えていない。

 

佐藤さんはピアノのユウスケ君に、

「僕の友人の近藤たっちゃんという人はあらゆるライブハウスにハンマーを持って行き自分でピアノの調律をしていた。キミもその気になればできるはずだ」

とか、

「ああいうハコでも、ちゃんと聞きたいと思っている人がいるかもしれないのだから、ちゃんと聞かせる姿勢で臨まなければダメなのだ」

とか、澤部君に、

「スカートという名前はどういう意味でつけたのか?」

とか、

「その答えは面白くない」

とか言っていた。

 

佐藤さん、僕には何も言わず、僕も何も言わず。

んでもそれもなあ、と思って何かしゃべろうと努力するのだが、だめで。

 

「なんか、時間が空き過ぎて、何を話していいのかわかりません」

と言った。

 

あと、

「それで今後、どういう展開になするんす?」

と聞いた。

 

佐藤氏は、

「後日こっそりキミにだけ教えるよ」

と言って、もう時間になり、佐藤氏は静岡に帰って行ったのだった。

 

・・・

 

その2、3日後である。

ああ!と僕は突然思い出した。

 

何をかというと、20年前のことで、

絶望の友が終わったときのことなんだけど。

僕は、

佐藤さんはまた必ず戻ってくる、

だって、あんな人が音楽から完全に離れるはずがない、というか離れられるはずがない、

だから、そのきたるべき時に備えて、バンドを続けていようと、

経験を積んでおこうと、

思ったのだった!

 

それでいろいろなバンドをやっていたのであった。

 

忘れてた!

 

コロッと忘れてた!

 

だって20年も前のことだもの…。

 

でも、佐藤さんとまた音楽をやることになると、20年前から想定していたのだった!

 

忘れてたなー。

 

しかし完全に思い出した!!!!

 

地球調査の為に派遣されたエイリアンが人間に化けて生活しているんだけど、何百年も、あまりに長いこと生活していたので、その目的を忘れてしまい、自分が地球人と思い込んでしまう。んで、思い出すって話があるのですが、それに似ている…。

 

はは。

ははは。

ははははは。

 

・・・

 

後日、

佐藤幸雄氏からメールが来た。

 

「君は20年たった気がしないと言いましたが、それは、」

 

 

 

 

 

 

「19年しかたってないからです」

 

 

 

 

ははは。と笑った。【僕と佐藤幸雄「再会編」・完】

 

 

 

・・・

 

【これからのあらすじ】

迫り来る2011年10月。高円寺円盤で田口氏・山田氏と共に佐藤幸雄と改めて会い今後の計画を聞かされたわたくし。円盤での公開練習を経て鈴木惣一朗氏が登場し平成のすきすきスウィッチが始動しなぜかそれにキーボード担当として加入させられCDを出し活動を辞め2人になり名古屋に行き藤木ひろしが加入し脱退し柴草玲が入り録音しツアーに行きまた録音し柴草玲が脱退しCDが出て佐藤幸雄という男・展が開催され…と話はこれからますます面白くなるところではありますが、お時間が来たようでございます。続きはまたいずれ。ご静聴ありがとうございました。

 

・・・

 

【あとがき】

去る2019年2/23(土)から3/7(木)にかけて、『佐藤幸雄という男・展』が西荻窪ニヒル牛』で開催されました。

 

これの開催にあたり、POP鈴木は佐藤幸雄さんから、

期間中の同店での2回のライブ演奏と、

「何かを制作して(書いたものでもよいから)出品するように」との要請を受けました。

で、作成したのが2冊の小冊子、「僕と佐藤幸雄」の『絶望の友編』と『それから・再会編』でした。

 

ここまでの文章は、それらをweb用に加筆訂正し再編集したものです。

 

そして、その前述の冊子の大もと・原典になった文章は、

2000年や2011年に、当時僕がやっていたブログ用に書かれたものでした。

はっきり言って、それらがなければ書けなかった。

書いておいてホントよかった。助かった。

2000年の自分を自分で褒めてあげたいのであります…

 

…と、ここまで書いた僕は、あれ、もしかして?と思うのだ。

 

2000年の僕は、

2019年に佐藤幸雄さんの発した「『展』をやるから何か書きたまえ」って声を聞いたのではないか。

だから2000年の僕は書いたのではないか…。

 

つまり、佐藤さんが2019年にパンって手を叩いて、それ、2000年の僕に聞こえてたのでは?

 

過去に聞こえちゃってたのでは?

 

って答えは、どうでしょうか? 佐藤さん?

 

 

・・・

僕と佐藤幸雄「それから・再会編」

POP鈴木

2019年3月2日 初版

2019年3月6日 再版・時価

2020年5月4日・僕と佐藤幸雄『再会編』」としてweb用に大幅加筆修正・分割・再編集し公開

 

僕と佐藤幸雄(2)「不在のとき編」

 

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注意・続きものです。初めから読みたい方はこちらから↓

popsuzuki.hatenablog.com

 

 

 

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 ■僕と佐藤幸雄(2)「不在のとき編」

 

 

 

 

「すずきー!」

声がする方を見やると、遠くの方にいる、あれは。ま、まさかの。佐藤幸雄さんではないか? え? うそでしょ?

 

「すずきー!」

ぐんぐん近づいてくる。僕は、後ずさりし、必死で逃げようとするのだが、足が思うように動かない。

で、もう、すぐそばまで来た佐藤さん、

「鈴木ぃ!!」

はい?

「またバンド始めるぞおおお!」

いやああああぁぁぁ!!って叫んだところで目が覚める。

 

そのころ、僕はしょっちゅうそんな夢を見ては、うなされ、寝汗をかき、飛び起きていた。そして、ああ、佐藤さんはいないのだ、という現実に、うすら寂しさを覚えたり、また、ほっとしたりしていた。

 

1992年の春。佐藤幸雄はいなかった。完全に姿を消していた。またどうせ、そのうち連絡をくれるんだろう、とタカをくくっていた僕であったが、そのタカは見事に見誤っていた。

 

会う人会う人に、その後佐藤さんから連絡来ましたか?と聞くのだが、みな一様に、いや、逆に鈴木君にそれ聞きたかったんだけど。てな返事ばかり。で、そのうち、誰々さんが結婚祝いを送ったんだけど、送り返されてきたらしい。いや、絶縁状が来たらしい。ぜつえんじょう?うそだーぜったい。いや、もう、結婚してお金持ちになったから、我々とは縁を切ったのだ。だからなんの連絡もしてこないのだ。いや、あの人に限ってそんなはずはないでしょう。いや、そうなんだ。なんでも何かの宗教に入ったそうだ。え?そうなんですか?うん、そうじゃないかと思うんだ。…想像かよっ!ってんで憶測が憶測をよび、もう、何がなんだかわからなくなっていた。

 

人に会うたびにその消息を聞いたり聞かれたりしていた期間は相当長かった。佐藤さんから連絡が来たら教えてくれ、と何人もの人に言われた。わかりました、必ず。と答えた。のだが。年月を経るごとにその頻度は減り、ごくたまに、1年ぶりくらいで会った人に、佐藤さん今何してるの?などと聞かれ、その度に、寂しい気分になるのだった。しかし、そういう会話も年々、減っていった。

 

・・・

 

佐藤さんがいないということで、僕にはひとつ、すごく困ったことが起きていた。

 

佐藤さんがいる場合、僕は、何でもかんでも佐藤さんに聞いたり、教えてもらったり、意見してもらったりしていた。

 

僕、何聴いたらいいんでしょう?

あのバンドのことどう思います?

こういうことしたら面白いと思うんですけど、どうです?

 

で、佐藤さん、

これを聴きなさい。

あのバンドはああだ。

やるな。

やれ。

それは違う。

これは正しい。

こういうふうに考えろ。。。

 

まずは何でも佐藤さんにお伺いを立て、意見してもらった。教えてもらっていた。時には判断を委ねていた。頼っていた。

 

しかし、佐藤さんがいない場合、あれ、僕、どうしたらいいんだろう?って場面で、自分で答えを出さなければならなくなった。てか、当たり前のことなんですけどね!お前いくつなの? いや当時27歳。え?バカなの?って話なんですけどね。

 

で、そのバカはどうしたかというと、ああ、こんなことしたら佐藤さんに怒られるな、とか、これだったら佐藤さんに褒めてもらえるかな、とか、そういう基準で物事を決めるようになっていました。佐藤さんにまた会った時に「何やってんだ鈴木ぃ!」って怒られないように。

 

第2段階くらいまでしか教わっていないのに免許を交付されて、一人で路上を運転しているような不安な気分だった。もう教官は隣にいない。あわあわしながらハンドルを切り、危なっかしく、それでもなんとか運転している感じ。

 

1993年、僕はコンピューターの仕事を辞め、とある大手予備校の大検コースのスタッフに職を求めた。自分の判断だった。当たり前か。

 

・・・

 

で、絶望の友が終わって、音楽活動はどうしていたのかというと、やっていた。Korean Buddhist Godというゴリゴリの変拍子ミクスチャーバンド。たいへん面白く、熱中してだいぶ長いことやった。

 

あと、なんと、さかな。絶望の友が終わってわりとすぐ、1992年の6月に僕を誘ってくれたのだった。最初は「カメラ」という別名義でのスタートだったが、最終的には「さかな」に戻った。あの当時、さかなをたいへんに評価していた佐藤さんであった。ああ、このこと教えたら何て言うだろう、と思ったりしていた。「すごいぞ。鈴木」って言ってくれるかなと。叶わないことだったが。

 

・・・

 

そんなこんなで、無闇に時は過ぎ、2000年3月。

東京と大阪で、さかなと田辺マモルさんの2マンライブがクアトロの企画で組まれた。田辺マモルという人と会うのは初めてだったが、知っていた。NHK-BSの真夜中の王国という番組で彼が特集されたのをたまたま観たことがあったのだった。で、『プレイボーイのうた』を聞いて、いいなあ、と思っていた。で、なぜか、少し佐藤幸雄に似ているなあと思っていたのだった。いや全然似ていないんですけどね。

 

で、まず東京でライブ。その時はさかながトリだったので田辺マモルはしっかり観なかった。で、3日後に大阪。そのときは順番が逆になったので、さかなの出番を終えた僕は客席に回り、ビール片手にじっくり田辺マモルバンドを観ていたのだった。うーん、いいなあ。で、ラストの曲ってんでメンバー紹介がなされていき「ドラム鈴木惣一朗!」って聞いた時、えええ??ってんで呆然とする。全っ然気がつかなかった。3日も。終わるとすぐ楽屋口に飛んでいき、

「惣一朗さん!僕のこと覚えてますか?」

「おおお!やっぱり君か!」

なんでも惣一朗さんは、田辺マモルをプロデュースするかたわら、たまにドラムも叩いているとのことだった。

「佐藤君からは連絡あるのかい?」

「いやいや。全然ないですよ。もう8年前ですかねえ。最後のライブやって、じゃあ、って別れて、それっきり」

「そうかぁ」

その日の打ち上げではもう、2人でずーっと佐藤幸雄さんの話。朝までずーっとしゃべっていた。他の人が横に来ても無視して、2人ともしゃべり続けた。誰の話ですか?と皆一様に変な顔をしていたんだが。

「ジョナサンリッチマンが来た時さ、佐藤くんが来ているんじゃないかって会場を探したんだよなあ」と惣一朗さん。誰ですかそれ?っていう僕に、後日アイスクリームマンのCDを送ってくれた。あと、東京に戻ってから1度飲み会に誘ってくれたりした。

 

・・・

 

さて、2000年だが、僕はヒマだった。34歳。腹の立つ生徒を蹴っ飛ばしたのを機に予備校を辞め、10か月くらい失業保険で暮らしていた。で、8月、ついにヒマが頂点に達し、「誰でも作れるホームページ」てな本を買ってHPを開設した。

 

当初は、さかなのHPを作ろうと思い立ったのであった。すでにさかなのHPはあるにはあったのだが、当時さかなの録音物をプロデュースしてくれていた高橋健太郎氏が更新・運営してくれており、多忙を極める高橋氏、LIVE info.に1999年の「7月」のライブの告知を最後に更新が止まり、それが記載されたまま1年経過して「7月」になり、その去年の告知を見た人から、この日にライブやるんですか? てな問い合わせを僕が受けたりしたので、こりゃもうだめだ、ここは暇な僕が、と思ったのがきっかけだった。

しかしさかなのHPにするのは出しゃばりすぎだと思い、鈴木POP君の個人ページというテイにしたのだった。ブログなどという言葉もない時代。ダイヤルアップという今じゃ考えられないくらい遅い回線だったなあ。

 

んで、さかなと僕の歴史をつづった「僕とさかな」なる文章を書いては公開していた。これが自分で言うのはいやらしいのだが評判が良く、生まれて初めて知らない人から褒めてもらい、嬉々として更新していたのだった。で、その途中、絶望の友とか佐藤幸雄とかいう固有名詞が出てきて、これは何? 誰? という空気がPCを通して伝わってた。なくなって8年がたっている。そうか。もうみんな知らないか…。ってんで、思い切って「僕と絶望の友」という文章を書いた。佐藤さんが見るわけはないと思ったが、気を使って、丁寧に、すごく時間をかけて書いた。10月。これが、先日配布した「僕と佐藤幸雄・絶望の友編」の原型。でも当時、反響はさほどなかった。ユーザーはさかなの続編を希望していたのだった。当たり前だが。

 

このころはホントにヒマだったので、やっぱりヒマな藤木ヒロシ君ってのと、よく飲んだり遊んだりしていた。ある日家に遊びに来たフジッキー、「絶望の友のビデオが観たい」と言い出した。

 

フジッキーのことは、佐藤幸雄に出会う前から知っていたのだが、彼は元々弓削さんのファンで、偶然、僕が加入したての絶望の友を観に来ていたり、その後も観に来てくれたり、っていう仲だった。

 

んで、ええ?そんなものもう何年も観てないなあ、ってんで引っ張り出してきて再生。絶望の友の最後のライブを収めたVHSビデオ。これ、超満員のマンダラ2で、フジヤマ店長のワタナベさんが下手の関係者席のようなところから撮ってくれたやつで、なぜかほぼ佐藤さんの顔のアップしか写していない映像。おお懐かしい、と感動するフジッキーをよそに、僕は、ゲラゲラ笑いながら、なんだよこれ。なんでおっさんのアップばっかりなんだよー。暑苦しいなあ。などと軽口を叩きながらビールを飲んで寝っ転がっていた。んで、ふと、あれ、このとき佐藤さん何歳だ?と酔っ払った頭で計算してみると、33歳。この酔っ払ってビデオを観ている僕、34歳。え?やだあ、あたしいつの間にかこのときの佐藤さんより年上じゃないの。えええ。いやだあ…。でもそーかー。としみじみ年月・時間というものについて考えてしまった。

 

・・・

 

んで、新たに職も得て順風満帆の翌2001年。ひとつの転機が訪れた。

 

発端は朝日美穂さんからのメールだった。曰く、高橋健太郎さんの事務所に2か月以上前、僕宛ての往復ハガキが届いた。健太郎氏は鈴木君に渡さなきゃ、とずーっと言ってたが多忙ゆえ放置。おまけにこの前そのハガキの上にコーヒーをこぼしていた。見兼ねた朝日さんがハガキを預かってきた。転送するので住所を教えてください。静岡の××幸雄さんという方からです。という内容。

 

はて、静岡に知り合いなんかいたかしら? 名前にもまったく心当たりがなかった。数秒考えて、なんか、知らない人からの変な手紙だな、と結論し、もういつでもいいですよー、という文面をPCに打ち込もうと思った矢先に、電気が走った。

 

あ! 佐藤幸雄さんだ! あの人結婚して苗字が変わった気がする。それで静岡に行くって言っていたような気がする。

 

ほぼ10年間音信不通だった。

 

うわ。なんだろ? 怒られるのか? あ、あれか。例の『僕と絶望の友』を読んで怒ったのか?

っていうか、2か月前だと?「なんで返事をすぐ寄越さないんだ!鈴木!」という声が聞こえ、怒りの顔が目に浮かぶ。あわわわわ。

速攻送ってください!と住所を送信。

 

で数日後。夏の夕方。家に帰ってポストを開くと、来た来た来た!佐藤さんからのハガキ。の入った朝日さんからの封書。あわわわわ。何を怒られるのだろうか。

 

すぐに見る気にはなれず、部屋の空気を入れ換え、着替え、テーブルの上を片付け、冷蔵庫からビールを取り出し、プシュッとあけてぐいっと飲み、西日のあたる窓辺の席に落ち着く。

 

で、息を殺して封筒を開ける。見覚えのある字体がそこにあった。

 

「鈴木君、先日さかなのCD"welcome"を図書館で見つけ、家に帰ってクレジットを見て驚き、わくわくしてあなたの演奏を聴きました。ツボを押さえたあなたのドラム。味のあるベテランドラマーになりましたね。今度は生演奏を見せてもらいたいと思うよ。とり急ぎ連絡まで。幸雄」

 

あら?ってんで、ものすごく拍子抜けする。

 

佐藤さん、2年前に出したCDを図書館で借りて聴いて、その発売元である高橋健太郎氏の事務所にこのハガキを送ったのだった。

 

何度も読み返した。◯◯荘102号室みたいな住所だった。とてもお金持ちが住んでいる住所とは思えなかった。それに何?図書館で借りたってどういうこと?お金持ちがとる行動ではない。そしてやっぱりみんなに絶縁状を送った人とは思えない。やっぱり違ったじゃないか!

 

庭先の、徐々に熱気が冷めていく夏の夕暮れを眺めながらしばしぼーっとした。

そして、するってーと、こういうことだな。と思った。

 

10年前に僕が色々話したかったのに去っていってしまった人物が、2年前に出されたCDを聴き、出したハガキが僕の手に届くまでに更に2か月かかったと。

 

すごい。全てのタイム感が無視されている。ハガキは、2か月前に書かれたもののようだが、2年前に書かれたもののようでもあり、10年前に書かれたもののようでもあった。コーヒーのしみも付いているし。

 

んで、この夏の夕暮れは、あの10年前のようでもあるし、2年前でもあるし、2か月前でもあった。時が止まっていた。時間ってなんだろうと思った。

 

ぼーっとしていると、ほどなくカミさんが帰宅。テーブルの上のハガキを見て、

「あ!佐藤さんからだ!懐かしい!読んでいい?」

どうぞ。ってんで読ませると

「へー。誉めてるじゃない。うれしい?」と僕に問う。

え?...全然。

「ふーん。なんで?」

うーん、なんでかなあ…。

 

あ。わかった。僕、佐藤さんに、怒ってほしかったんだ。

 

・・・

 

で、その後、何回か佐藤さんと文通した。本当の文通。手紙ね。郵送のね。

僕、あの娘と結婚したんですよー。んで、今度子どもができるんですよー。とか。

そしたら佐藤さんから本が1冊送られてきた。子育てに関する書籍だった。

「この本には僕もとても助けられたんだよ。ぜひ読みたまえ」と書いてあった。相変わらずだなあ。やさしいなあ。

 

佐藤さんメールとかしないんですか、と問うたのだが、PC持ってないんだよとのことだった。PCを持つ余裕がないのか、持つ必要性を感じていないのか。わからなかったが、おそらく前者じゃないかと僕は勝手に想像していた。そういう話題には触れなかったし、佐藤さんもしなかった。電話番号も聞かなかった。僕が電話を嫌いだということもあるが、なんか、そういう雰囲気ではなかったのだ。

 

そのころの、2002年正月に僕が出した佐藤さんへの手紙の原文が残っているので、紹介する。

 

・・・

 

ちょっと遅れましたが、明けましておめでとうございます。

あと、大変遅れまして、申し訳ございません。お返事出すのが。

 

赤ちゃん育児本、送っていただき、本当にありがとうございました。ちょうど、そういう本でも読まなきゃなあ、と思っていたところで、驚きました。

 

妻は昨年12月に博多の実家へ戻りました。里帰り出産です。赤ちゃんの性別は男の子だと先日判明いたしました。8か月目でいきなり逆子になったので、これは生まれる前から反抗期か?と心配しましたが、一昨日妻から電話があり、「今日検診に行ったら直ってた」そうで、おお、いい子だ。さすが僕の子、などと既に親馬鹿な次第。

 

話はガラッと変わりますが、実は、昨年11月初めに、父が出張先の長野で倒れました。脳内出血で、今日明日死ぬかも、てな感じでした。幸い命はとりとめたのですが、この1月になっても未だ意識が戻りません。長野の病院に入院しておりますが、11~12月は僕もそっちに行ったり、東京に戻ったりで大変忙しく過ごしました。母は離れるのがイヤと、もうほとんど長野に行ったきりだったのですが、やっと昨日家に戻ってきたので、僕も今日は実家に足を運び、ちょっと遅い正月気分を味わっておる次第。

 

しかし11月はいろいろと考えざるをえない時でした。

週末、長野の病院に行き、集中治療室で頭から管を出して眠り続けている親父を眺め、母を元気づけるために、思ってもない事を無理矢理言ったりし、東京に戻って山のような仕事につきあい、家に帰ってお腹の大きい妻に、心配ないよ、とカラ元気を言ったりしながら、ああ、ついに、僕の、音楽なんてものをやる自由な時間は終わりを告げたのかなあ、と思いました。

思えば今までいい身分だったよなあ、はは、と思いました。

今まで考えないようにして、うやむやにしてきたもの、見ない振りをしてきたもの、を一気に突きつけられた気がしました。

こりゃだめだ。今まで泥のように送ってきた人生のツケなのだ。はは。やめよう。もう音楽はやめよう。そんでもってあとは家族のために時間を使おう。 そう決心して2週間ぶりにさかなのリハに行ったのです。

 

で、スタジオで、ドラムを叩いたら…これが楽しい。西脇さん・POCOPENさんのギターとPOCOPENさんの歌にあわせて叩くドラムが楽しい。実際その時のスタジオは、僕の今までの音楽人生の中でも最高の演奏でした。なぜギターというものがああいう音を出し、歌が歌われるのか、すごくわかった気になりました。で、僕はドラムをこう叩く。と思って叩く。と思い通りに音が鳴る。僕の気分は今こうだよ、と思っていることが、自然と体を通して、ドラムを通して、外に出ていく爽快感。スタジオという空間が音によって満たされ、時間が音に支配されて進んでいく。久しぶりに、ああ、今、この時間は自分のためにある時間だ!と思いました。

 

そのとき、ああ、音楽やっててよかったな、と、心底思いました。

同時に、こりゃやめられないや。と。いや、やめちゃいかんな、と。

考えたのです。

 

どう思われます?

 

今はやめようなんてこれっぽっちも思っていません。そりゃ、いつかはやめるだろうと思います。でも今は、以前より迷いがない、というか、完全に、自分のためだけに音楽をやるんだ、とさっぱり開き直ったというか。もちろん、一緒にやってくれているメンバーとか、聴きにきてくれるお客さんとかのためにやるのですが、そういう人たちに喜んでもらったり、感動してもらったりする、ということ自体が、僕のためなのだと気付けたというか。

 

父はおそらく完治はしないと思います。それでもたまに、左手をぴくぴく動かした、と言って母が喜んで電話をかけてきます。母は自分が打ち込めることができて生き生きしています。今、在宅リハビリに向けて奮闘中です。

 

僕は仕事をしたり、ドラムを叩いたりして、早く妻が赤ちゃんを連れて帰ってきてくれないかなと。

そんな日々です。

乱筆乱文お許しを。

ではまた。

 

2002年1月5日

鈴木POP

 

・・・

 

さて、そんな日々が過ぎ、そのうち佐藤さん、なんと、電子メールをしてくるようになった。図書館のPCを使い、フリーアドレスを取得し、週末だけ図書館で受信送信できるようになった、とのことだった。

 

「君の日記を毎週楽しみに読んでいるよ」てなメールをくれた。僕はまあ、今でいうブログなのだが、公開していて、情けない日常をつづっていたのだった。酔っ払ってライブやって、結構めちゃくちゃだったけどよかった、とか書いていた。

 

「いつかライブを観に行くよ」というメールをもらった。でも、その「いつか」は全くやってこなかった。

 

「君が音楽を続けていられるのは、奥様のおかげなんだよ。感謝しなさい」てなメールももらった。そうかあ、と思った。

 

「鈴木君、酒を飲んで演奏するのはやめたまえ」てなメールももらった。うるさいなあ、と思った。

 

・・・

 

ある日、佐藤さんからこういうメールが来た。

円盤の田口さんから、『絶望の友』の膨大な昔のライブ音源から選曲したCDを出さないかと打診された。鈴木君、動いてくれないか。まずは弓削氏に連絡を取って、CDを出していいか確認してみてくれ。と。

 

弓削さん。「絶望の友」後、名古屋に居を移されてからも僕はちょいちょい会っていた。弓削さんのライブが東京であるってんで見に行ったり、僕が何かの用事で名古屋に行ったときに連絡して、手羽先をご馳走してもらったり。まあでも、だんだん疎遠になっていて、そのころはもう何年も会ってもいなけりゃ連絡もしていない時期。しかしメールしたらすぐに電話が来た。結果、不承知ということでCDを作る話はあっさり消えた。佐藤さんからも「そうか」というメールが来ただけ。

 

で、その後も佐藤さんからはたまにメールが来たり来なかったりしていた。「ついにPCを買おうと思うんだが、安くていいやつはどれかな?」てな質問に、僕は「すみません、お近くのヤマダ電機か何かで店員に聞いてください」というそっけない返事を出したりしていた。

 

・・・

 

んで、さらに無闇に季節は巡り、2010年の秋。

さかなやKBGはとっくに辞めていたそのころの僕は、前野健太くんのバンドをやり始め、その映画に出演。それが東京国際映画祭で賞をとり、ニューヨークなどに連れて行かれ、ウハウハしていた。楽しかった。前野健太くんというのは僕より一回りも歳下で、「POPさんがいた頃のさかな見てましたよ」とか言われていい気になって先輩風吹かせながら日々を送っていた。

 

で、前野健太くんのちょっと規模の大きいワンマンライブを武蔵野公会堂でやったときのことだ。

「POPさん、今日制作で入ってもらっているディスクユニオンのカネノさんって知ってます?」

「全然知らないなあ」

僕は知らなかったのだが、カネノさんはその界隈では結構な人物だということで、実際そうだった。

 

「なんか折り入ってPOPさんに頼みたいことがあるらしいっす」とマエケン

 

んで、何ですか?とカネノ氏に問うと、

「『すきすきスウィッチ』の唯一の音源『忘れてもいいよ』を再発したいから佐藤幸雄さんと連絡を取りたい。連絡先がわかならいので教えてくれないか」とのことで少々驚いた。

 

なんで僕に?と問うと、

「いろいろ調査した結果、今、東京で佐藤幸雄さんと連絡が取れるのは、どうも、君しかいないようなのだ」と言われる。

あら、そうなんですか…。へい。承知しました。ってんでまずは佐藤さんに、これこれこういう人があなたの連絡先を知りたがっておりますが、教えていいですか?というメールを送る。

なんとなく「ダメに決まってるだろ!鈴木!」と怒られるような気がしていた。

んで1週間後、「いいよ」ってな返事。でカネノさんにアドレスを教える。

 

ほどなく、今度は佐藤幸雄さんから僕にメール。

「ソウちゃんの住所を知ってたら教えてくれ、知らなかったら調べてくれ」

…知らんがな。ってんで鈴木惣一朗さんの家の住所。調べて、教えた。

 

で、その後の諸先輩方のやり取りは知らないのだが、なんとなく、CDは出ないんじゃないかなと思っていた。まあ出るんですけど。

 

・・・

 

今考えれば、これが予兆だったのか、というような不思議なことが、この2010年12月から2011年2月にかけて同時に起こった。

 

まず12月、カーネーション直枝政広さんのソロプロジェクトのドラムをひょんなことで引き受ける。で、直枝さんと初めて会った時、「僕、佐藤幸雄さんとやってたんです。20年前くらい」つったら、えええ???ってすっごい驚かれて、すっごいいろいろしゃべった。佐藤さんのことしゃべるなんて久しぶりだった。直枝さん、佐藤さん・すきすきが大好きだったんですよね。もう嬉しそうに、ノリノリで話してくれた。年が明けて直枝さんのバンドで東京・大阪と回ったのだが、大阪ではアンコールですきすきスウィッチの「おみやげ」まで演奏したのだった。

 

・・・

 

んで、同じ1月、松江哲明監督からメールが来る。2月に前野健太の映像作品のイベントをやるのだが、そこに『前野健太David Bowieたち』以外の形でPOPさんにも出演してほしい。で、「スカートのサワベ」という若者がいるのだが、そいつと2人でなにかやってくれないかとのこと。

 

は?誰それ?てなもんだったが、断れなくて、あまり気乗りしないまま、そのサワベ君ってのと打合せをしに会いに行ったのだが、そのサワベ君。なんと、僕に会うなり、こう言ったので驚いた。

 

「『絶望の友』の鈴木さんですよね?」

 

耳を疑った。

元さかなのPOPさんですよねとかは言われ慣れていたが、『絶望の友』の鈴木なんて言われるのは、かれこれ20年ぶりだ。

 

何なんだ君は?と。てか、おいくつなの?と問うと「23っす」というアンサー。え?てことはだよ。君が3歳くらいのときなわけで…。

どういうこと?と聞くと、このスカート・澤部くん。まあ、変態なんだな。マニアなの。おたくと言ってもいいでしょう。よく知ってるんですよね。昔のこと。

んで、このとき彼は学生でディスクユニオンのカネノさんの下でバイトもしていて、この度の「すきすきスウィッチ」再発のプロジェクトをちょうど手伝っているそうで…。不思議な縁なんだ。

 

あらそう、ってんで話をする。佐藤さんてどういう人なんですか?ってんで20年ぶりに思い出したことなどいっぱい話す。主に僕が怒られた話である。澤部くん、すごく興味を持って聞いてくれた。打合せ、つってもほぼ佐藤幸雄氏の話で終わった気がする。

 

んで、2月。澤部君とライブ。これが、とてもよい演奏ができた。リハでいきなり澤部君が『絶望の友』の曲を弾き出して、僕はびっくりしたんだけど体が勝手に反応して叩き出してしまい、そのまま演奏したりして。

「いやあ、これ、すごい曲ですよ」と澤部君は嬉しそうに興奮していたが、僕は20年間思い出さなかった曲に体が勝手に反応して叩けてしまうのに、ホントびっくりしていた。

んで澤部君とはすっかり意気投合。それ以降もスカートでたまにドラムを叩くことになった。

 

そのライブにはディスクユニオン・カネノ氏も来た。「すきすきスウィッチ」の再発盤「忘れてもいいよ」を手に。もらった。

あら、本当にできたんですね。と言うと、

「今度は佐藤幸雄さんを引っ張り出しますよ。そのときは協力してください」とカネノ氏。

 

「いや、そりゃそうなったら手を貸しますけど…、『絶対』無理ですね。『ぜっっったい』出てこないですよ。佐藤さん」と僕。

 

本当にそう思っていた。

確信していた。

 

佐藤幸雄さんはもう現れない。

 

約20年。人前に出てこなかった方が、なんでわざわざ出てくるのよ?

このままの日常が続くのよ。

 

2011年2月。僕は本気でそう思っていた。

 

しかし、この1か月後の3月11日、予期しなかったことが、みんなに等しく降りかかる。

平穏だった日常が崩れる。

 

そして僕は、その半年後、あの人と再会することになるの。

 


・僕と佐藤幸雄(3)「再会編」につづく。

popsuzuki.hatenablog.com

 

 

・・・ 

僕と佐藤幸雄(2)「不在のとき編」

POP鈴木

2019年3月2日 僕と佐藤幸雄「それから・再会編」 初版

2019年3月6日 再版・時価

2020年5月3日・「僕と佐藤幸雄『不在のとき編』」としてweb用に修正・分割・再編集

僕と佐藤幸雄(1)「絶望の友編」

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時は1990年の4月。

僕は、鬱々としていた。悶々としていた。悩んでいた。春なのに。

 

彼女いない歴24年の24歳。大学をなんとか卒業し、コンピューター会社に職を得ていたのは世がバブルだったから。

 

学生時代は、ほとんどの時間を、ぬるま湯のような音楽サークル活動に捧げていた。だまされて入ったパンク・インディーズサークルで、僕は聞いたことのない音楽の洗礼を受けた。毎日が楽しく、ワクワクし、ゲラゲラ笑い、人生の中でもいちばんの、夢のような時代だった気がする。その流れでライブハウスにちょいちょい出演するようにもなっていた。

 

しかし卒業を機に、みんなは音楽をやめた。サークルには何の未練もなかった僕だが、しかし、音楽活動をみんなのようにやめる気にはなれなかった。まだ続けたかった。ライブハウスで。まだ続けられると思っていた。だからライブの企画を5月に設定した。

 

4月1日から働き始めた。と言っても僕の場合は研修であり、新入社員250人あまりと一緒に学校のようなところで情報処理の授業を受けていた。そいつらにはバンドのことは一切言わなかった。隠していた。休みにくくなるし、言うのはダサいし、言っても理解されないだろうし、というか理解されたくなかった。とにかく僕は君らとは違うんだよ、と自分から線を引いた。自分は彼らより浮いた存在に思えた。

 

日々、情報処理の授業を受けながら、ふと、今後どうなるんだろう、と考える。5月のライブが最後になりそうな予感はしていたし、その場合どうしたらいいのか、さっぱり思いつかなかった。音楽をやめることになるのかな、と思う。やめたほうがいいのかもしれない、とも思う。みんなみたいにやめて、普通に暮らすか。

 

机を並べた顔のない奴らをそっと見渡す。真面目に講師の話を聞いている奴、ぼーっとしてる奴、やる気をみなぎらせている奴、手鏡を出して化粧の具合を確かめている奴、寝てる奴。自分もそんな奴らのひとりになっていく。教室を満たす生ぬるい空気が僕を取り込んで、どこかに連れて行こうとする。

 

はっと、うたたねから目覚める。あぶないあぶないと思う。いや、自分は君らとは絶対に違うと思う。というか思いたかった。

 

働き始めて2週間ほどたった4月16日。

授業が終わると、誰よりも先に教室を飛び出し、一目散に家に帰って背広を脱ぎ捨てる。薄汚い黒っぽい服に着替えて、夜の街に飛び出すと、本来の自分に戻った気がした。

 

代々木チョコレートシティーへ。3月の自分の企画に出演してもらったバンドが2つ出るので、これを鑑賞し、終演後は5月のライブのチラシをまこうとしたわけだ。

 

料金を支払い、中に入るとガラガラだった。ライブハウスのにおいをかいで、ほっとする。カウンターでビールを受け取り席に着く。「さかな」が演奏中だった。たゆたうように奏でられる音楽が、ささくれかけていた心をふんわり包んでくれる。いいなと思う。生き返った気がする。

 

次のバンドというか2人組がセッティングし出した。知らない人たちだった。2人ともギターアンプをいじっていた。ドラムはいないようで、大いにがっかりした。当時僕はドラムのいないバンドには全く興味が持てなかったからだ。だけどその次が目当てのバンドだったから帰るわけにも行かない。しょうがないから見るか。てな感じだった。

 

客電が落ち、しばし静寂。何か妙に力の溢れたずんぐりしたモヒカン坊主と、世間をすねたようなちょっと嫌味な感じのヒョロっとしたお兄さんの2人。

2人は黙って顔を見合わせ、しばし呼吸をあわせる。そしてネックを振り上げ、

グワーン・ギャ・ギャーギャ・グワーン・ギャ・ギャリラーリラ

いきなり力強いハードロック。坊主は口をへの字に曲げ首を肩にめり込ませた格好で力強くストローク。にいさんは糸が切れた操り人形のようにぐらんぐらん回りながらリフを弾く。目はあらぬ方を鋭く睨みつけている。怖い。

ギャギョーン。ギャギョーン。ギャギョーン。ピタっとギターを止め静寂。そして坊主がマイクに近付きアルペジオギターと共に歌いだす。

「きーみのーせなーかにーだーれがーなくー」真っ直ぐな歌いっぷり。声はどこか甘く、熱を帯びた目は大きく開かれ上空を見据えていた。

 

正直なところ、なんだこれ? と思った。気色悪い。むさい男2人が、時にドギャーと狂人のように暴れ弾き、時に静かに歌い、時に変拍子でみょみょみょみょ弾き、足を踏みならし、叫び、曲を終わらせ、神経質にボーンとチューニングする。なんなんだこれ?

 

初めて見る料理を食ってこういう経験をしたことがある。最初、においを嗅いだだけで、うわ、なにこれ、まずそう、と思う。一口食い、うわ、まず、と思う。もう一口食い、何だこの味?もう一口、あれ?もう一口、案外いけるかも、で、もう一口、もう一口と食っていくうちに、どんどんどんどん美味しく感じられるようになり、ついにはその奇天烈な味の虜になり、皿をなめ回し、もっとクイテーと思う。

 

不思議なことに、まるでそんな風に彼らに引き込まれていった。息が合ってないような、わざと合わせてないような2本のギターがぶつかり合ったり離れたりする。その隙間でドラムの音が聴こえる気がする。2人の演奏が絶妙に絡んで、聴く者に鳴ってないドラムを聴こえさせているかのようだった。これはすごい。と思った。

最後はもうかぶりつくように食った。じゃない。見たのだった。

 

このバンドこそが「絶望の友」。ヴォーカルギター佐藤幸雄さん、ギターヴォーカル弓削聡(ユゲ・サトシ)さん。仲が良さそうなわけでもなく、楽しくやってるという風でもなく、未来のない感じで、しかし熱く演奏してた。まさに「絶望の友」という名にふさわしい2人だった。

 

・・・

 

で、次のお目当てのバンドが始まったのだが、なんだか、つまらなかった。あれ? こんなバンドだったっけ? 先月共演した時は好きだったのに。すっかり興醒めしてしまい席を立つ。帰るお客さんにチラシをまくために、出口の階段で待機していようと思った。

 

と、絶望の友のギターの人、弓削さんがそこにいた。

「あっ。お疲れさまでした。すごかったです」決して話し掛けやすいタイプの人ではなかったはずで、今考えると不思議でならないのだが、その時はとにかくとっさに声を掛けてしまった僕だ。

「はあ。そりゃどうも」何だこいつは? ぐらいの調子で彼はじろっと僕を見た。話はどうも続きそうにない。

「…いやあ。本当によかったです」

「ふーん。一体どこがそんなによかったわけ?」と、まるで喧嘩を売られるかのように問われた。

え? 何この人。初対面の人間に向かってなんちゅう口の聞き方かしら。(とその時は思ったのだが、弓削氏はそういう人物だということを後日知る)

ややびびりつつ何とかその質問に答えようとする僕。

「えーと…。その、ドラム。そう、ドラムがいないじゃないですか」

「うん、いないねぇ」

「でもドラムが鳴ってるように聴こえました」

「ほー」この答えにはなんとかご満足いただけたようだった。ほっとする僕。

「なんでドラムがいないんですか?」

「うーん。ていうか、そもそも、もう一人の佐藤ってのが一人でやってたところに誘われて、ちょっと前から2人でやりだしたばかりなんでね」

はあ。そうなんですか。と僕、「ドラムを入れるつもりは無いんですか?」

「いや。そろそろ入れたいよね、と話はしてるんだけどね」と弓削氏

「実は僕、ドラムやってるんですよ」と僕。なおも勢いでこう言ってしまった。

 

「よかったら僕を使ってみませんか?」

言ってしまってから、ちょっとしまった、と思った。言わなきゃよかったと思った。弓削氏は唖然としていた。

 

まあ、でも言ってしまったものはしょうがない。よかったら見に来てください、と持ってたチラシを渡し、逃げるように階段を駆け上がった。

 

今思えば、自分からドラムをやらせてくれと言ったのは、人生でこれが最初で最後のことであった。

 

で、すっかりそんなことがあったのを忘れ、5月の頭に新宿JAMで「パロッツ」というバンドでライブをやったのだが、なんと、そこに佐藤さんが現れた。本当に見に来てくれたのだった。

そして後日、「入れてやる」という電話が来た。

 

そして、僕の記録によれば、その5月の28日と29日にはマンダラ2と代チョコで、もう3人でライブをやっている。おそろしく展開が早いなあ、と今更ながら思う。とにかく「絶望の友」という変な名前のバンドの活動は幕を開けたのだ。活動期間はわずか1年9か月である。自分自身、その短さを意外に感じる。体感では4~5年やった気がするのだが。そして、僕にとってはその後の音楽スタイルや人生をも決定付ける、一生忘れられないバンドとなるのである。

 

・・・

 

さて、絶望の友の一員となったのだが、僕としては道場に通うような感覚だった。

もう、この2人にかかっては、僕は単なるドラム小僧に過ぎなかったし、実際僕は右も左も分からぬ小僧だったのだ。

 

大体僕はリハーサルスタジオに遅刻していく。その日も15分くらい遅れたろうか。「遅れましたーすいませーん」と入っていったら、

「お前!本当に悪いと思ってるのか!思ってないだろう!だから毎回毎回遅れるんだよ!ふざけんな!」と、弓削氏に火の出るような勢いで怒られた。

あわわわ。すいません。もうしません…。ぐっ。もう2度と遅刻はすまい、と固く心に誓った。そして僕は決して遅刻をしない人間になった、というのは嘘だが。しばらく気を付けるようにはなった。

 

まあ、怒られて当然のエピソードですが。弓削氏に怒られたのはこれ1回きりのような気がする。

 

ここで、弓削氏について解説したい。当時20代後半独身。僕より3~4歳年上だと思う。元・イルボーン、東京ギョギョームなどである。町田町蔵のアルバム「ほな、どないせぇゆぅね」でギターと編曲を手掛けていた。真面目な方だが、変わり者だ。エフェクターの音は何百通りと家で試してからスタジオに持ってくるそうだ。ギターは超うまい。絶望の友の演奏の技術面はこの人に大きく頼っていたと言っても過言ではないだろう。

 

かつ、絶望の友の楽曲の大半を作曲していた。自分の曲が出来ると、譜面をくれた。一度、ドラム譜付きの譜面をくれたので、ビビった。後にも先にも、ドラム譜をスタジオでもらったことはこれ以外にない。それを初見でやらされたのだが、私、こう見えてもドラム譜が読めるので、なんとか期待に応えることができ、その時はちょっと見直された気がする。が、結局僕は最後まで弓削氏にあまり認めてもらえなかった気がする。

 

さて、佐藤氏であるが、当時31歳独身。僕より7つ上である。当時と変わらず今も7つ上である。不思議だ。うそ。で、元「すきすきスウィッチ」である。その他の経歴については割愛する。のだが、一応告白しておきたいのは、私、そのとき「すきすきスウィッチ」って全然知らなかったんですな。なはは。

 

で、最初に練習でスタジオ入った時か何かに、「君、どんなのが好きなの?」と聞かれ、「あ、有頂天とか好きです」と言ったのだと思う。本当は有頂天とか、そんなに知らないんですけどね。そしたら、佐藤さん、「君、小林君が僕の曲を勝手に演奏していることを知っているか?」と急に怒り出して、もちろん知らないし、ケラさんの本名が小林ってのも知らなかったし、ケラさんのことを小林君と呼ぶような間柄だということも知らなかったから、ビビった。

 

あと、最初のライブを見にきた学生時代の仲間から僕が「POP」と呼ばれているのを聞きつけて、「おい、お前、ポップって呼ばれているのか」と詰問され、「あ、はい」と言うと、「そんな呼ばれ方は即刻やめろ!親からもらった名前があるだろう!俺は絶対そんなふうに呼ばないからな!」と怒られた。だから僕は佐藤さんにずーっと「鈴木」と呼ばれるのである。まあ、鈴木なので。いいんですけど。

 

で、佐藤さんにはよく怒られた。

元来、佐藤さんは高校時代に生徒会長をやるくらいの熱血漢。体育会系とはちょっと違うが、礼儀礼節を重んじる。世話好き、説教好き、講釈好き。で、僕は格好の後輩役だったのである。僕はというと、わりと素直だったというか当時は単純だったので、オス!先輩お願いします!もういっちょこーい。てな具合でむしろ進んで、しごきを受けていた格好だ。

 

練習で何かの曲をがーっと演奏し終わったとき、こう怒られた。

「鈴木!何で俺がこいうい歌詞で、こう俺が歌って盛り上がってるのに、アッチェしないんだ!」

つまり、歌に合わせて、ある部分によってテンポを上げろ、と要求してきたのだ。

歌詞をちゃんと聞け、俺が何を歌ってるのか、その意味をちゃんと理解しろ、そしてそれに反応しろ、感情を高まらせろ、その感情に合わせてテンポを速まらせたり、もたらせたりしろ、ぼーっとするなと。

走る、と言いますが、普通、ドラムってのは一般的には常にテンポをキープしなきゃいけないもので、違うバンドでは「走るな」としょっちゅう言われてきたのであって、「走れ」と指示されたのはこれが初めてだった。

「こうですか?」

「違う!」

「こうですか?」

「まだまだ!」

「こーですかー!」

「もっとー!!」アホみたいですが。マジでやってました。

しかし、元々僕は、ちゃんと歌詞を聞くという習慣がなかったし、感情のままにドラムを鳴らすといったこともあまりしていなかったので、いい勉強になったのである。本当に。これは後にやったあらゆるバンドで役立った。感情のままのドラム。今では唯一の僕の売りである。「アッチェ」という単語の意味もわかったし。

 

マンダラ2に自分のボロボロのドラムを持っていった時のこと。

僕らの後のバンドもそれを使い回すことになった。逆リハで、先に大御所バンドの高名なドラマーの方が僕のドラムをチューニングしだした。当時チューニングの仕方もろくに知らなかった僕だが。ああ、こりゃいいや。ラッキーってんで、ぶらぶら暇を潰して戻ってきたら、怒られた怒られた。

「お前!ああいう時はチューニングの仕方をちゃんと見て盗まなきゃだめだろ!」

すいませーん!仰る通りで。

 

北海道の大谷会館というところに行ったときのこと。共演は遠藤賢司バンドだった。

会場にはすでに、たいそう立派なドラムが組まれていた。エンケンバンドのドラマーの人のだ。

「鈴木。エンケンさんの楽屋に挨拶に行くぞ」「はい!」

失礼しまーす。今日はよろしくお願いしまーすと挨拶。で、僕、ここは礼儀を欠いたらまた怒られると、先手を打ったつもりでドラマーの方に、

「今日はあなた様のドラムを有難く使い回させて頂きます。光栄です」かなんか言ったのだ。するとその方、おや、と不思議そうな顔。

「え?君も使うの?それは聞いてないなぁ…」

慌てて佐藤幸雄さん「いや。違います。違います。別のドラムを用意してもらってます!」

すっかりしらけてしまった楽屋の扉を後ろ手に閉めた佐藤氏。

「鈴木ぃ!お前何のつもりであんな事言うんだ!恥ずかしい!そこいらでガキのバンドとタイバン張るんじゃねぇんだぞ!」

あわわわ。この時ばかりはさすがに僕も物凄くしゅんとした。

ステージに行くと、隅に粗末なドラムセットが転がっていた。色々な意味で悲しかった。

 

エンケンバンドと北海道というのもそうだが、とにかく、佐藤幸雄という人は物凄く顔が広くて、お陰で僕は、いろんな所に連れて行ってもらったし、いろんな人たちとタイバンさせてもらった。

 

だいたい、加入したらすぐ、佐藤氏は、「よーし、やっと念願のバンドスタイルになった。これはお披露目を兼ね、久々にツアーをやる」と瞬く間に大阪・岡山・京都・名古屋・4日間の演奏旅行を計画してしまったのである。(そのとき大阪・名古屋は割礼と一緒だった。と思う)

 

その後も名京阪はしょっちゅう行った。特に京都。どん底ハウスとか、MUSEHALLだとか。タイバンは概ね元アーントサリー現LOVE JOYのビッケさんの「積極的な考え方の力」というバンド。そもそも「絶望の友」という名前もビッケさんが付けたらしい。佐藤さんと大変仲よしだった。ビッケさん周辺の変わった京都人がいつもお客さんとして足を運んでくれて、打ち上げは決まって鴨川沿いの「まほろば」というお店で朝まで盛り上がる。すっごい楽しかった。行った先では、必ず佐藤氏の友人が泊めてくれる。どこに行っても楽しかった。

 

大阪ベアーズに行く話が決まったとき、店長でもある山本精一氏に「何とタイバンしたい?」と聞かれた佐藤さんが「想い出波止場」と答え、山本さんはそれまで、想い出波止場は自分の店ではやらない事にしていたのだが、わざわざその禁を解いてタイバンしてくれたのだ。と当時、佐藤氏が自慢していた。本当のことだった。覚えているのは、山本さんがステージ後、僕にこう言った事だ。

「もう洗面器は叩かんの?」

 

そう。洗面器。前述の初ツアーの時に僕はドラムセットに洗面器を組み込んでいたのだった。それを山本氏は見ていて、覚えていてくれたのだ。

 

「鈴木君。君ね、何か変わったものを叩かないか?」と佐藤氏に言われたのが始まりだった。

じゃあ、ってんで風呂場に転がっていたアルマイトの洗面器をスタジオに持ってきて叩いた。

カンカン。「それだよ!鈴木君」初めて誉められた。やったー。

うれしくなった僕は、調子に乗って「水に流して」という曲中で、その洗面器にじょぼじょぼと水を注ぐ、というのをやってみた。

「それだ!それだ!いいぞ!鈴木!」もう佐藤さん大喜び。

そうですか!ってんで最終的にはその水の中に大量のコインをじゃぼじゃぼ落とす、ってとこまでやった。しかしこれはマンダラ2の小倉さんに「意味がわからん」と酷評をいただき、やらなくなった。

 

でも変なものを叩くシリーズは結構やった。ガラスのコップを割ってみたり、紙風船をぷーっと膨らませてパンと割ってみたり。

マンダラ2の客席左に鉄の柱が数本立ってるのだが、ドラムを途中で止め、そこまでダーっと走ってってそれも叩いた。カンカンと。さすがにこれはやり過ぎだったか?と本番後、佐藤氏の顔をうかがうのだが、

「鈴木!今日は良かったぞ!」とご満悦。

「でも途中でドラムがなくなっちゃって、変じゃなかったですか?」

「何言ってんだ。そんな小さいことは気にしないに決まってるだろう」

そうか。小さいことか。

てな具合に、僕は益々間違った奏法を修得していく。

リズムキープ?何それ?てなもんである。

これで僕が何でこんなに下手っぴなのか分かったでしょう?

 

・・・

 

あと、ここで言っておきたいのは、「絶望の友」では「すきすきスウィッチ」の楽曲は一切演奏しなかった、ということ。これは佐藤氏と弓削氏の中で取り決められていたのではないかと推測する。

 

で、1990か91年、「すきすきスウィッチCD再発記念復活LIVE」というのがあった。元メンバーでライブをやったのである。僕は機材車の運転手兼坊やを仰せつかった。

「すきすきでドラムだったソウちゃんってのが、やってくれることになったよ」にこにこの佐藤さん。よほどうれしかったのだろう。うきうきして僕に言った。「ソウちゃんてのはなぁ、凄いぞ。もうドラムはあまりやってないんだけどな。だから2度と見られないぞ。しっかり見て勉強しとけよ」

そして見ました。そこで、なぜ佐藤さんが僕に、いろいろな変態プレイをやらせようとしたのか、わかった気がしました。

 

タムにタオル。スネアにもタオル。「ドラムはね、あんまり鳴らすものじゃないの。」

と、鈴木惣一朗氏はセッティングしながら僕に説明してくれた。

当時から細野晴臣氏のもとで活動をしていた惣一朗氏。

「もう何年もスティックは握ってないけど、音楽を作る場には居続けてるから違和感なく叩けちゃうもんだな」

その言葉どおり。凄い演奏。

だいたい、シンバルをジャーンなんて鳴らさない。

ほとんどのパーツをしっかりミュートしてるので、ポコポコ、モコモコした音色。しかしその音がいい。

ドラムフレーズも今までに聴いたことが無いような奇妙なもの。しかしなぜかそれが歌に合っている。

うーむ。これか。佐藤さんが言ってたことって。

スネアの上に無造作にトライアングルを乗せ、叩く。ぽこ、チャリーン。ぽこ、チャリーン。トライアングルは涼しげな音を響かせながらスネアの上を飛び跳ねる。そしてついには落っこちる。落ちたら演奏が終わり。あはは。すげー。

佐藤氏はと言えば、そんな惣一朗氏をもう信頼しきって、楽しそうに演奏し、歌っていた。すきすきの楽曲もおもしろいものばかりだった。

 

その日、僕は鈴木惣一朗氏にいっぱい話を伺いながら、車で家までお送りした。運転席で、家の中に消える氏の姿を最後まで目で追いながら、もう2度とお会いする事はないだろうな。と思っていた。まあ、会うんですけど、その話は後で。

 

・・・

 

佐藤さんには、勉強と称して、いろんなライブに連れて行ってもらった。そこらへんのライブハウスから、スタジアムまで。プリンスとか、デビッドボウイのティンマシーンとか。コンポステラもよく行った。篠田昌已さんにも紹介してもらった。一度、篠田さん率いるチンドンの公演を見に、どこかの演芸場みたいなところに連れて行ってもらったのだが、最後に太鼓鳴らしたおばちゃんとかが全員で舞い出して、その光景が儚くも美しすぎて、僕は泣いてしまったんだなあ。

 

あと、これは対バンの演奏を2人でぼーっと見てるときだったか、その人がMCで「今日は調子が悪くてゴメンねー」かなんか最後に言ったんだな。そしたら佐藤さん、「鈴木、調子が悪くても絶対、それを言うなよ。むしろ、今日はとてもよかったと言わないとイカン。お金を払って見に来てくれたお客さんに失礼だからな」と。ああ、そのとおりだなあと感じ入った僕。以来、いくら調子が悪くても、出来が悪くても、「今日はバッチリでした!」と言うようになった。お客さんにはね。これは今でも続けている。

 

そんでもって、佐藤さんの家にもよく遊びに行った。2階建ての一軒家で、1階は資料室だった。大概、練習の後か、ライブの後か。仲間とかお客さんも含めて大勢で押し掛けたりもした。朝までいろんな音楽を聞かせてもらったり、ビデオを見せてもらったり、いろんな音楽の話をしたり。ちょっとしたサロンだったなあ。

 

佐藤さんとは、そりゃもう、たくさんの音楽の話をしたのだが、ある日、このような謎をかけられた。

「鈴木君、僕が今こう、パン、と手を叩くだろう」

「ふんふん」

「この音がね、過去の人に聞こえてしまったら、どうしよう?」

うーーん。

 

んで、考えて翌週、

「あの、例えば、花火が上がって、離れた所にいると、音が遅れて聞こえますよね」

「うんうん、それで?」

「だから、過去の音が、未来に聞こえる、ってのはあると思うんです」

「おお、いいぞいいぞ。それで?」

「いや、そこまでです」

「違うよ鈴木、あのね、未来じゃなくて過去の人に聞こえちゃったらどうしよう、って言ってるんだよ。はいまた来週」

 

えーーー。ってんで毎日この問題に悩みまして、翌週。

「佐藤さん。わかりません。教えてください」

「おお、そうかあ。で、教えてくれって何を?」

「いや、答えですよ、答え」

「答えは無いよ」

・・・はあ?

「僕は、聞こえちゃったら、どうしよう、って言ってるんだ」

・・・え?

「どうしようなあ。困っちゃうなあ、と言ってるんだ。答えは無い」

な、な、なんじゃそりゃーー!!という話。なぜか覚えている話です。

 

・・・

 

24歳の僕は、30歳を過ぎてもバンドを辞めずにやってる人は、はっきり言っておかしい人に違いないと思っていた。当時ね。で、佐藤さん。31歳。この人はどういうつもりなんだろうかと、その精神性やその生活にまで、たいへんに興味を持っていた。自分の将来のよいお手本、もしくは失敗例としてのよき教訓にもなるのではないかと。かなり仔細にその言動を見守っていた。

 

・・・

 

突然段ボールとマンダラ2でツーマンでタイバンしたときだった。僕は突然段ボールイカ天で初めて見、その人たちと共演できたので、だいぶ興奮していた。すべてが終わり、客席で打ち上げが始まったとき、僕は蔦木のお兄さんと佐藤さんがテーブルをはさんで向かい合ったすぐそばに陣取った。この二人が何を喋るのか、たいへん興味があった。で、乾杯の後、

「佐藤君、君、結婚してないの?」と、蔦木兄さんが聞いた。

「うん、してないよ」

「なんで?あの娘は?」

うっ。と佐藤さんの顔がこわばった。

「いや、もう何年も会ってないよ」

「なんで?俺、佐藤君とあの娘、結婚すると思ってたけどな」

あっはっは、と場が盛り上がる。

が、佐藤幸雄氏は顔をこわばらせたまま、少しうつむき、しばし思いにふけるような形になったのを僕だけは見逃さなかった。そんな佐藤さんの顔を見るのは初めてだった。そして佐藤さんはしばらくして、こう言ったのだ。

「うん。後悔してるよ」

 

ガーーーン。と思ったね。当時の鈴木くん24歳は。

えーーー!と。

佐藤さんでも、こんなに自信を持って何でもやっている人でも、こんな偉そうにしている人でも、後悔するんだー。と。で、

31になって後悔するのは、嫌だっ、と。僕は心に強く刻んだのだった。

 

それで僕は、彼女を作ったんだな。職場の同僚。その人は現在は僕のカミさんなんだけど。

 

彼女できましたー。ってんで絶望の友のライブかなんかに連れてったんだが、いやいや、メンバー含め周囲が激しく動揺したのを覚えております。当時そういうキャラではなかったんですね、僕。永遠のドラム小僧だったんですよね。でも、そうじゃなくなった、というのも、絶望の友の終焉になんらかの作用をしたのではないか、とも思えています。

 

・・・

「僕たちのやってることは、今まで誰もやったことのないものなんだ。だからお手本が無いんだ。わかるか?鈴木?」

佐藤さんがよく言ってた言葉だ。

「音楽なんてものは無限の可能性があるんだよ、鈴木君」と、佐藤さん。練習後はよく飲みに行き熱く語り合ったものだった。

「もっと勉強だ。お互いな。鈴木!」「はい!」よーし。がんばるぞー、と思ってた矢先だった。

 

佐藤幸雄さんの口から、「『絶望の友』をしばし休ませたい」てな言葉が出たのを聞いたのは、1992年の1月か2月。

 

いつものようにスタジオで練習した後、折り入って話したい事があるから付き合いなさい、ってんで、わりと久しぶりに佐藤さん・弓削さん・僕の3人がそろって笹塚の居酒屋へ。生ビールを半分ほど飲んだくらいの頃合いでその爆弾のような発言がなされ、僕はしばし思考が停止したし、思考が停止していたので、かたわらの弓削さんが「はあ?」と言ったのか「なんで?」と言ったのか、はたまた全く別のリアクションをしたのか記憶がない。

 

しかし、佐藤さんが理由、というか、事の次第を説明している途中で僕は、ああ、と思い当たるフシ。があったので比較的すぐ状況を理解できた。

 

そのフシとは。

数か月くらい前、練習後だったかライブ後だったかに、連れられて佐藤さんの家。くつろいでいると、留守番電話を再生した佐藤さんが、「また無言電話だ。いやだなあ。何か残せよなあ」とつぶやいた。ご承知でしょうが、携帯電話も無ければEメールなんてものも無い時代。若者はすべからくアパートに電話線を引き留守番電話を設置し連絡を取り合っていたんである。さらにバンドマンは「お問い合わせはこちら」ってんでライブのチラシに堂々と電話番号を記載していたのだった。さらに佐藤さん。マメというか変わっているというか。留守電の応答メッセージを毎日変えていた。「今日は何時までどこそこにいます、何時には帰宅します、ではメッセージをどうぞ、ピー」てな応答メッセージを僕も何度も聞いていた。

というのがその「フシ」である。

 

早い話、佐藤さん、結婚することになったんであった。その相手こそ、無言電話のヌシで、佐藤さんと直接話したくはないけど、佐藤さんの声は聞きたくて、留守の時間帯を見計らって電話していた。でも、ある日、たまたま平日の昼間かなんかに家にいた佐藤さんが電話に出た。で、なんかあって、結婚することになったのだった。

 

んで、結婚相手の街に住まざるをえない状況で、遠いところなので、バンドはいったん休止、ということだった。まあ、そういう事情なら、状況がナニするまで…と、僕は思った。弓削さんは、到底納得できない様子で、かなり怒っていた。

 

1992年2月10日、超満員のマンダラ2。

結局この日が実質、『絶望の友』のラストライブになった。

 

最後に演奏したのがは弓削さんの「水に流して」という曲。

歌の1番は僕が歌った。歌っている途中で、この1年10か月間が走馬灯のように思い出され、こらえ切れず泣いた。

 

その後。

ほどなく弓削氏も名古屋に居を移してしまった。遠藤豆千代さんの『全滅三五郎』などでご活躍された。

 

そんでもって僕だが。

 

佐藤さんとは、マンダラ2の最後のライブで、じゃあ、って別れてそれっきりとなった。

数日後の引越しを手伝う約束をしており、その日がいついつ、と聞いていたのであるが、僕が日にちを間違えたのか、佐藤さんが違う日を教えたのか。とにかく気づいた時はもう、佐藤さんは東京から姿を消していた。

 

まあでも、また近いうちに会える日が来るのだろうと軽薄な考えで暮らしていたのだが、そんな日はやって来なかった。

 

そのころの僕の心境は、せっかく本気で好きになってきた年増女が不意に忽然と姿を消し、 「なんでぇ」とむくれつつも、身悶えしている少年。といったところか。

 

あんな事こんな事、色んな事を教えてくれた年増女が。

 

 

・僕と佐藤幸雄(2)「不在のとき編」に続く・・・

popsuzuki.hatenablog.com

 

 

僕と佐藤幸雄「絶望の友編」・完

 

POP鈴木

2019年2月23日 初版

2019年3月6日 第3版・時価

2020年5月2日 そのままweb版として公開

2020年5月4日 ラストをこっそり変更